"CooL/lab"-music review

music review


2005/5/21-6/28・M.ラヴェル『東京芸術大学・ラヴェル・プロジェクト』
2005/6/6・M.ラヴェル『オルフェウス室内管弦楽団』
2004/10/18.19・M.ラヴェル『ラヴェルな夜』ロジェ・ムラロ
2004/5/14・M.ラヴェル『モンフォール・ラモリの丘より』
2004/2/22・M.ラヴェル『スペインの燦き』
2000/8/5 ・B.ブリテン《真夏の夜の夢》
2000/3/13・映画『ファンタジア2000』
2000/3/4 ・H.ラッヘンマン《マッチ売りの少女》
1999/3/29 ・W.リーム《狂ってゆくレンツ》
1997/12/19・P.ヒンデミット《ロング・クリスマス・ディナー》
1997/9/18 ・S.ライヒ《ザ・ケイヴ》
1997/8/28 ・《和解のレクイエム》
1996/10/4 ・H.W.ヘンツェ《エル・シマロン(逃亡奴隷)》

2005/5/21-6/28→『東京芸術大学・ラヴェル・プロジェクト』 M.ラヴェル

at 東京芸術大学 奏楽堂
■ラヴェル・プロジェクト第1回
 藝大のラヴェル・プロジェクト第1回に行って来ました!! 今年はラヴェル生誕130年でございます(半端・・・)
 まず、美術史家で大原美術館館長の高階秀爾先生の1時間超のレクチャー題して「光と色の戯れ」。 内容はラヴェル(1875-1937)の時代のフランス絵画を印象派、ポスト印象派、ナビ派、フォービズム、キュービズムの流れに沿って解説。その後2台のスライドで、過去の絵画と比較などをしながら、印象派以降の絵画がもたらした決定的な特色を大変分かりやすく説明していました。登場した画家は。ダ・ヴィンチ、コロー、クールベ、ドラクロワ、ルノワール、セザンヌ、ドラン、ヴラマンク、マチス、ミレー、スーラ、モネ、マイヨール、シニャック、ボナール、ヴュイヤ−ル、レジェ、ピカソ、ドローネー、デュフィ、ゴッホという感じで、ラヴェルとは関係なくとても興味深いレクチャー。具象の模倣をしようとすれば絵の具を混ぜて中間色を作り陰影を出す。でも色は混ぜる程明度が落ちて画面が暗くなる。この方法で光の戯れともいうべき実世界は表現できない。そこで、印象派は・・・と。もう素敵な美術館に行った以上の良い気分。
 そうしてコンサートスタート。まずは声楽曲から。取り上げられた曲は、ソプラノで「ハバネラの形をしたヴォカリーズ・エチュード」「トリパトス」「クレマン・マロの2つのエピグラム」。テノールで「ロンサールがおのが魂に寄せて」「草の上で」「5つのギリシア民謡」。メゾソプラノで「博物誌」。さらに メゾソプラノ、ピアノ、フルート、チェロという特異な編成をもった「マダガスカル人の歌」。最後の「マダガスカル人の歌」は取り上げられる機会が少ないはず。僕は歌の事は良く分からないのですが、とても素晴らしかったと思います。またピアノ伴奏もラヴェルらしく、難しそう・・・(手の交差ばかり)。
 そして、休憩を挟んで2台ピアノ曲です。ものすごく初期の作品「耳で聴く風景」、そして連弾5手というおかしな編成の「口絵」。実は(ラヴェル好きを名乗っておいてなんですが)この2曲は初めて聞きました。すでにミニマル・ミュ−ジックの前兆を感じさせるナイスな曲でした。続いて「スペイン狂詩曲」。オケで有名ですが、ピアノだと音が一つ一つ聴こえてより理知的です。最後は圧巻の「ラ・ヴァルス」。もう言葉がありません。原曲の持つ迫力とかグロテスクさが、見事にアレンジされていて、カッコイイ!!これは弾けたら気持ち良いだろうな〜。
 これだけ聴けてお値段なんとたったの1,800円!!
 というわけで、第2回はピアノ全曲、第3回は室内楽全曲、第4回はラヴェルが望んだラヴェル「マラルメの3つの詩」、ストラヴィンスキー「3つの日本の抒情詩」、シューンベルク「月に憑かれたピエロ」のプログラム。第5回は「シェエラザード」ヤ2つのピアノ協奏曲など管弦楽曲のプログラム、第6回はなんとオペラ「スペインの時」と「子供と呪文」2本立て。それでも各回たったの1,800円!!

■ラヴェルプロジェクト第2回
 はい。というわけで、芸大のラヴェルプロジェクト第2回に行って来ました!僕にとってはロジェ・ムラロ以来のラヴェルのピアノ全曲演奏会。
 まずはレクチャー。音楽学者の松橋麻利先生によるピアノ実演付きのレクチャーで、ラヴェルのピアノ曲に流れる二つの傾向についてのお話し。 第一の傾向は1894年頃の最初の歌曲《愛に死せる王女のためのバラード》から始まり《ソナチネ》で完成される古雅で旋法的、過去の枠組みを拠り所にする語法。精緻、明晰、透明なテクスチュア。  第ニの傾向は同時期(1893年頃)の最初期のピアノ曲《グロテスクなセレナード》に一瞬現れ、第一の傾向が完成されるまで潜行して《鏡》《夜のガスパール》で再度浮上するグロテスク(ラヴェルにとってのロマンティック)な傾向(時期的にフォービズムにあたる)。スペイン趣味、非和声音の探究、異なる音楽的空間を急速な転換を伴い恐怖や不安をかいま見せる。うめきのように始まり断ち切られるように終わるパターン。で、この二つが、晩年の2つのピアノ協奏曲につながって行くと。 (たくさんメモってきたので、そのうちどこかに詳しくレビューを書きまっす)
 さて、コンサートは、時代順に数人のピアニストが数曲づつ演奏して行く形。独演で全曲より、それぞれのピアニストの解釈の性格が出るので面白かった。特に着物で演奏された遠藤郁子先生の《鏡》は素晴らしかった。途中で絶対に指が限界に達する曲だと思うのですが、完璧な解釈の再現と絶妙な鍵盤・ペダルの操作で風格のある演奏だったと思います。着物で弾く〈道化師の朝の歌〉はエキゾチック! しかも着物の靴(なんていうんですか?ぽっくり?違うか・・・)で、あれだけ絶妙なペダルワークには驚きました。
 あと《マ・メール・ロワ》は大人の男女で連弾すると結構やらしいなと思いました・・・大人のための本当はエロい童話という感じ(笑)まあラヴェルってエロいとこありますよね(笑)
次回は僕が失神する程好きなラヴェルの室内楽です。楽しみ〜。

□ラヴェル・プロジェクト第3回の聴きどころ
芸大ラヴェル・プロジェクトの第3回は室内楽作品の全曲演奏会です。6/11の土曜日まで少し日があるので、僕なりに聴きどころを書いてみます。

ヴァイオリン・ソナタ(1897)
 1897年のヴァイオリン・ソナタはラヴェルが最初に書いたヴァイオリン・ソナタ。遺作です。ちなみに遺作と言うのは、死ぬ直前に書き残した作品ではなく、死後発見された作品の事です。1975年に発見されたこのソナタはラヴェルが22才の学生時代の作品です。7/8拍子を基調とした単一楽章の作品ですが、古典に範を求めるラヴェルの傾向に即してソナタ形式になっています。聴き所は、物憂気な冒頭主題。本当にラヴェルは出だしから耳を惹く作曲家です。あと展開部のモダンなピアノとの絡みは素敵です。
ガブリエル・フォーレの名による子守歌
「ハイドン名によるメヌエット」を同じ方法でガブリエル・フォーレの12文字を音に置き換えています。GABRIELFAURE→ソラシレシミミファラソレミ。この主題が一歩づつ下降するピアノに乗って無茶苦茶きれい。ヴァイオリンがずっと弱音器付きというのも、子守歌の性格に配慮していてラヴェルらしい。
ハバネラの形をしたヴォカリーズ・エチュード
 第1回のコンサートで歌われた「ハバネラの形をしたヴォカリーズ・エチュード」が原曲。ハバネラのリズムはラヴェルが大好きで、「スペイン狂詩曲」や「スペインの時」にも見られますね。ラヴェルにしては珍しい装飾的な旋律がなんともアンニュイです。
ヴァイオリンとチェロのためのソナタ
 今僕が一番好きなラヴェルの曲。この曲はすごい。音楽的価値も高いと僕は思います。「ハーモニーの魅力を切り捨て、旋律の感覚に一層明確に反発を示し、音楽そのものをむきだしにする」とラヴェルが言っているのですが、とにかく斬新です。あのラヴェルがハーモニーを切り離し旋律荷反発すると、どんなことになるのでしょう。初めて聴くとややラヴェル観が変わる作品。有名な作品で表面化しているラヴェルらしさはほとんどないのですが、実はこういう面が常に存在する作曲家だと思います。
 第1楽章はソナタ形式。7音からなる主題を繰り返す緻密すぎる構成。終わり方もすごい。第2楽章はスケルツォ、第1楽章と類似の主題だが、ピッチカートを多用し、弦を打楽器のように扱って見事な効果をあげている。バルトークっぽさすら感じかも。第3楽章は、緩徐楽章。ピアノ・トリオのパッサカリアを連想させるが、もっと押し殺されたような2声の調べ。第4楽章はロンド形式。フィナーレに相応しい賑やかで粉飾に満ちた楽章。主題の付点のリズムもラヴェルらしくないし、しかしこの手の無窮動はラベルの得意とする所(ピアノ・トリオやト調のピアノ協奏曲にも)。チェロから始まる2回目の主題はラヴェルらしからぬ土着的旋律でとくに面白い。何度か聴くと耳に残って困ります。
ヴァイオリン・ソナタ
  ピアノが伴奏してヴァイオリンが歌うという伝統的なピアノ・ソナタではありません。ほとんどピアノとヴァイオリンはそれぞれ独自に動きます。ですから、原題通り「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」とするべきです。  第1楽章は、限られた主題だけで展開して行く自由な楽章。この出だしのピアノを聴いて下さい!そして主和音のまま上方進行する斬新な音。ぶつかりあう7度のハーモニーが最高です。途中盛り上がった所で、後にト長調のピアノ協奏曲の第2楽章に見られる非和声音の旋律があります。第2楽章は、なんとブルース。バンジョーを模したヴァイオリンのピッチカート。我々の耳はそこにト長調の3和音を聞き取りますが、ピアノがベースを鳴らすと、いきなり変イ短調のテンションコードだった事が分かります。すごい仕掛けです!!この曲はラヴェルの計算づくの革新性と娯楽精神が一体になった名曲です。途中のヴァイオリンのバンジョーのかき鳴らしもびっくりします(ヴァイオリン・ソナタでヴァイオリンにこんな事をさせるなんて!)。「子供と呪文」のフォックス・トロットが思いっきり使われているのも楽しい。第3楽章は、ヴァイオリン動きまくリの無窮動です。後に「左手のためのピアノ協奏曲」につながる旋律や「高雅で感傷的な円舞曲」の断片があります。このピアノの伴奏が好きです。第1楽章の主題が回顧されるエンディングも素晴らしいです。

■ラヴェルプロジェクト第3回
 芸大のラヴェルプロジェクト第3回に行って来ました!これで3回目なので、なんか芸大に通ってる気分。本日のレクチャー(井上さつき教授)は『ラヴェルとパリ音楽院』という題で、学生時代のラヴェルにスポットをあて、フランスの音楽教育文化やローマ賞などについての短かめのレクチャーでした。内容はラヴェルの伝記を読めばほとんど書いてある事なので、あまり新しい発見はなかったのですが、ラヴェルがローマ賞で3等になった時の1等を受賞したアンドレ・カプレ(1878-1925)の予選での作品と、同じ時にラヴェルが予選で書いた作品との聞き比べなど興味深い内容でした。課題歌詞に基づく合唱とオーケストラの曲なので同じ『あらゆるものは光り』という曲なのですが、これはラヴェルらしからぬつまらない曲で(フォーレの亜流のようにも聴こえた)、カプレの方がまだ面白みがある曲になっていました。手元にある複数の伝記には、ラヴェルが審査員向けに作ったと書かれていますが、確かにラヴェルらしさはほとんど感じられません。カプレについては「ピアノと木管のための五重奏曲」という曲を聴いた事がありますが(ラヴェルとカップリングで)、ラヴェルより若いくせに、旧態依然という感じの曲だった気がします。
 ラヴェル事件辺りまで話しが進んだ段階でレクチャーは終わり、レクチャーの中での演奏という名目で(この名目は意味がない)、『ヴァイオリン・ソナタ(遺作)』『ガブリエル・フォーレの名による子守歌』『ハバネラの形をしたヴォカリーズ・エチュード』が演奏されました。この辺りについては、以前の日記で紹介した通りです。
 いよいよコンサートという事で、まずは、『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』(曲については以前の日記参照)この曲は特に聴くというより生で見る事をお勧めします。僕は、昨年のロジェ・ムラロ来日の際の小林美恵、向山佳絵子の演奏以来この曲の大ファンです。ラヴェル好きを当惑させる曲として悪名(?)が高いのですが、素晴らしい作品です。今回の演奏も迫力満点。フレーズが頭から離れません。続いて『ヴァイオリン・ソナタ』(曲については以前の日記参照)。割とファジーなヴァイオリン演奏と、やたらメカニックなピアノ演奏が、なんとも奇妙な色気を出していました。でもこの曲はもっと遊んで欲しいと思うのは僕だけでしょうか??そしてラヴェルの室内作品で最も高い人気を誇る『弦楽四重奏曲 ヘ長調』。生で聴くのは初めてです。左(第一ヴァイオリン)から女性、男性、女性、男性で、学生さんらしくみんな若く素敵なカルテット。そして演奏は適確で精度が高く、なにより楽曲への真摯な姿勢が伝わって来て今回のコンサートで特に「良いなー」と思った楽曲でした。特にチェロが良い音(アルコでもピッチカートでも、第ニ楽章は延々ピッチカートだし・・・)を出していました。ここで休憩。
 後半は、まず『序奏とアレグロ』ほとんど聴いた事がなかった曲なのですが、ラヴェルらしいというより、ちょっと感じの良い映画のサントラ的な小気味の良い盛り上がりがこれまた素敵でした(決してハリウッド的ではない感じ。分かりにくいですよね。)。『ツィガーヌ』は本当に難曲。それほど難しく見えない所がまた難曲のゆえんですね。今まで何回か演奏会で聴きましたが技巧フラジョレットが完璧に出ていた演奏は聴いた事がありません(笑)。『ピアノ三重奏曲』は。今回『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』、『ヴァイオリン・ソナタ』と多楽章曲を演奏しその表現力と足腰の動きで僕を虜にしたジェラール・プーレが若いピアニストとチェリストを伴って再登場。最後にピアノトリオ曲史上の最高の傑作『ピアノ三重奏曲』を演奏しました。どの楽章も才気に富み、エキサイティングで、最高でした。ピアノがほぼ完璧でその安定の上に、ヴァイオリンとチェロがオクターブで動く所など感涙ものでした!!第4楽章はしばしば低く見られがちで、僕も他の3楽章に比べ幾分異色だなとは思っていたのですが、今回の演奏は第4楽章の必要性を完全な説得力で認識させてくれました。というわけで、今回は総じて学生さん(というか期待のホープですね)が大活躍のコンサートでした。ラヴェル好きにはたまらないこの企画、まだまだ続きます。ああ、よだれが・・・。

■ラヴェル・プロジェクト第4回
 すっかり報告が遅れましたがラヴェル・プロジェクト第4回に行って来ました。
 レクチャーは「ラヴェルとその時代」。まず1975年、ラヴェル生誕100周年に日本で行われたラヴェル・フェスティバルの話から。ああ、丁度、僕が生まれた頃だわ。この企画で中心的な役割を果たした池内友次郎(高浜虚子の子供で、日本人として始めてパリ音楽院で学んだ作曲家)は、「西洋音楽史はラヴェルで終わった」と言ったそうです。なんか頷ける。
 また、実際ピアノでラヴェルの『ハバネラ』とドビュッシーの『グラナダの夕べ』を聞き比べ、ドビュシー・ラヴェル事件として有名な剽窃事件を検証(ドビュッシーがラヴェルをパクったという事件)。パリ、ペテルスブルグでのジャポニズム流行を、作曲家の部屋の写真を使って見せたり、なかなか気の効いたレクチャーでした。
 コンサートは、ラヴェルが是非にと望んだラヴェル、ストラヴィンスキー 、シェーンベルクの同編成(全く同じではないが)の歌曲集。1949年ピエール・ブーレーズが初めてこの3曲でコンサートをするまで、ラヴェルの希望は叶えられなかったのです。
18時30分に始まったコンサートは、
ラヴェル『マラルメの3つの詩』13分
ストラヴィンスキー『3つの日本の抒情詩』4分
18時55分から20分休憩
シェーンベルク『月に憑かれたピエロ』35分
19時55分終演という、短ーいもの。もちろんメインはシェーンベルク。なんともラヴェルの影の薄いラヴェル・プロジェクト第4回でした(笑)ま、なかなか聴く機会の少ない楽曲なので、そこは◎

■ラヴェル・プロジェクト第5回
5/21から始まったラヴェル・プロジェクトも、はや第5回。本日は藝大フィルハーモニア定期演奏会として、ラヴェルの『シェエラザード』『ピアノ協奏曲ト長調』『ラ・ヴァルス』『左手のためのピアノ協奏曲』『ダフニスとクロエ第2組曲』というプログラムです。
 プレコンサートとして開演前のロビーで『ラ・ヴァルス』のピアノ独奏版の演奏があり、至近距離から、演奏者の手と鍵盤を見る事が出来ました。楽譜が3段になっている部分の弾き方やグリッサンドの左右の交替など勉強になる所が盛り沢山。これは最高の企画でした!
 コンサートは、指揮の尾高忠明が急病のため、急遽、佐藤巧太郎の指揮となりましたが、オケの集中力と推進力が見事で、本当に素晴らしいものでした!!
『左手』は手の大きい男性ピアニストが弾くというイメ−ジがあったのですが、北川暁子さんの演奏はそれをくつがえす迫力で。ラヴェルのサドっぷりにも唖然と(笑)。
『ラ・ヴァルス』はのびのびとしたアプローチではっきりとウィーン風情を出していました。オーケストレーションの凄まじさが目で見るとはっきりと分かりますね。またスコアに一回だけ出て来るクロタルという楽器を目で見る事が出来ました(笑)
『ダフニス』は、あまり好きな曲ではなかったのですが、バッカナールの凄まじい疾走感と破壊力に度胆を抜かれました。なんといってもオケが上手い!!フルート、コラーングレを始め、8人のパーカションのアンサンブルなども目で見ると本当に凄まじいです。ノリノリの5拍子、ちょっと癖になりました!帰り道の歩き方が5拍子になったりして。
次回、最終回は6/28。『スペインの時』『子供と呪文』のオペラ2本立てです。毎週、開演まで上野公園をぶらぶらし、嵯峨のあられを食べ、過ごしていた日々ももう終わりかと思うと、妙な寂寥感が・・・。ラヴェル、愛してますー。

■ラヴェル・プロジェクト第6回
ラヴェル・プロジェクトもついに最終回。涙。
最終回はラヴェルの残した2つのオペラを2本立てで上演するという感動的な企画。
 まずは『スペインの時』。この作品は、2004年新国立劇場で『スペインの燦き-ラヴェル〜バレエとオペラによる〜』の時に、一度観ていますが、僕としては今回の藝大バージョンの方が、演出、キャスト共に見ごたえがあってとても面白かった。トルケマダが客の出入りを遠くから監視(?)しているという演出も見事に作品に伏線をはっていました。「恋人の中で役に立つ恋人を1人だけ選べ」そういう作品です。
 次の『子供と呪文』は、有名なキリアンのダンスバージョンを映像で観た事があるだけで、今回始めての舞台鑑賞。泣いたーー!!基本的には子供向けの童話なのですが、子供のいたずらによってひきおこる悲劇がどーんと胸を付いて。特に引き裂かれた羊飼いの合唱やエンディングでは、思わず涙が・・・。小さきものへの愛に溢れた素晴らしい舞台でした。今、上演する意味を持った名作だと改めて認識しました。
特に『子供と呪文』はほとんどのキャストを学生が演じており、本当に若い才能が結集して出来上がったという感じ。学芸会などと言っては失礼なんだけど、学芸会の持っている熱意や工夫といったあらゆる感動的な部分を持ったまま、プロレベルの質の高いパフォーマンスを見せてくれた事に、心から大拍手です!!!
ラヴェル・プロジェクト全6回、本当に感謝です。ビバ・ラヴェル!ビバ・藝大!

 


2005/6/6→『オルフェウス室内管弦楽団』

at サントリーホール
  今日は、久しぶりにサントリーホールに行って来ました。 オルフェウス室内管弦楽団の来日コンサートです。指揮者のいないオーケストラです。 曲目は、ラヴェル:マ・メール・ロワ、ピアノ協奏曲ト長調、ゴリジョフ:ラスト・ラウンド、ヒナステラ:協奏的変奏曲。
「マ・メール・ロワ」は、バレエ版の方だと思ってスコアまで用意していたら、普通のオケ版でした・・・。これは結構ショック!!
「ピアノ協奏曲ト長調」は、ピアノのキャサリン・ストットがドレスを着ず、パンツ.ルックで楽団員に溶け込む事で、オケとピアノの協奏曲ではなく、アンサンブルになっていました。この少人数でラヴェルのばらばらのスコアをやると輪郭がはっきりして聴き応えありです。 ストットのアンコールはショパンのノクターン嬰ハ短調(遺作)。あんまラヴェルと関係ないのが残念。
「ラスト・ラウンド」はオズヴァルド・ゴリジョフ(1960〜)の2つの弦楽四重奏と2本のコントラバスのためのピアソラへのオマージュって事でタンゴ・テイストの危険な楽曲。ただ今日の編成は(多分)ヴァイオリン*5、ヴィオラ*4、チェロ*4、コントラバス*1という感じでした。
「協奏的変奏曲」はアルゼンチンを代表する作曲家ヒナステラの代表曲。これまた楽器のソロが多く、この楽団にぴったり。
 オケのアンコールは3曲。バルトーク:ルーマニア民族舞曲、武満徹:他人の顔より「ワルツ」、グルーグ:ホルンベルク組曲より第1楽章(と書いてあったが、組曲「ホルベアの時代」より1.前奏曲かな?)。長ーいアンコールで大満足!!全プロの中でも実はバルトークが良かったりして。
 


2004/10/18.19→『ラヴェルな夜』ロジェ・ムラロ M.ラヴェル

at すみだトリフォニーホール
  作成中。
 


2004/05/14→『フランス音楽の彩と翳 vol.9 モンフォール・ラモリの丘より』M.ラヴェル

at 東京オペラシティコンサートホール
 ラヴェルが続きますが。5月の東京シティフィルの演奏会は、『フランス音楽の彩と翳 vol.9 モンフォール・ラモリの丘より』と題したラヴェル・プログラムです。もちろんラヴェルはフランス音楽に欠かせない作曲家です。僕の好みを通せば1番と言いたい所ですが、通常、ドビュッシーに続いて2番目でしょうか。音楽史的役割という基準で評価するとなるとどうしても格を落とされるのですが、僕はラヴェルにも音楽史的役割は相当あると思いますが・・・(プリペアド・ピアノを最初に使ったのはおそらくラヴェルだと、松平頼暁氏も著述してましたし)。
 で、モンフォール・ラモリとは、後年ラヴェルが住んだル・ベルヴェデーレという家がある村の名前です。作品でいうと、1922年の二重奏ソナタから1932年の最後の作品『ドゥルシネア姫に想いを寄せるドン・キホーテ』までが書かれています。このコンサートで取り上げた2つのピアノ協奏曲は、ともに1931年の作品です。
 まず《左手のためのピアノ協奏曲》。名前の通り左手しか使いません。CDなどで聴いていると、左手しか使っていない事は良く分からないのですが、生で見ると、当然、左手しか使っていないので、聞き慣れた曲なのに、改めて吃驚します。ピアニストが両手で演奏する時、もっとも響かなければいけない伴奏の最低音と高音の最高音、簡単に言ってしまえば、ベースとメロディ(外声部)は、位置的に左手の小指と右手の小指という最も弱い指に来ます。今回の演奏を見ていてその事に改めて気がつきました。つまり左手でメロディを弾く時、親指が最も高い音に来るので、旋律がしっかりと響いてきます。一方、最低音を鳴らすには、小指では力が足りないので、ほとんど手刀のように(つまり手を縦にして)小指に全ての手の力を載せて、小指が折れんばかりに弾かなくてはなりません。《左手のためのピアノ協奏曲》は相当にすごい作品であり、それを弾きこなすピアニストのパワー、おそろしい技術に改めて感嘆しました。変な意味、音楽を聴いているどころではないというか感動物でした。
 続く《ピアノ協奏曲ト長調》は両手のための曲で、ラヴェルでも弾けたくらい(?)技術的に難しい曲ではありません。むしろ他の楽器の方が面倒かも。それでも、大好きな曲だし、自分でも下手くそながらピアノ・パートを弾いてみたりするので、聴きごたえがありました。バタバタした曲なので、オケのバラつきが気になりました。特に木管がやや鳴りが悪い印象でした。第2楽章のイングリッシュ・ホルン史上最も美しいメロディは良かったのですが、全曲を通して表現を押さえているのか、硬くなっているのか、判別しづらい点がありました。この2曲のピアノ協奏曲を並べて演奏したフランク・ブラレイの演奏は圧巻でした。独特のタッチや解釈があり、是非、彼の録音も手に入れたいと思わせる演奏でした。
 《左手のためのピアノ協奏曲》のあと、指揮者と左手で握手をする辺りもお茶目ですが、エスプリを見せつけたのはアンコール曲にオペラ《子供と魔法》からティーポッドと紅茶茶碗が歌う音楽("How's your mug?")をピアノ版で披露した所です。実はラヴェルは1917年に《クープランの墓》を書いて以来、ピアノソロ曲は作曲していません。つまり、モンフォール・ラモリ時代にピアノソロ曲は存在しないのです。ブラレイさんのレパートリーにはラヴェルのピアノ曲がそれこそほとんど入っているでしょうが、あえて(だと思いますが)モンフォール・ラモリというタイトルに配慮して1925年作曲の《子供と魔法》から可愛らしいそして、フランス風の楽曲(歌詞は英語やら中国語なんだか日本語なんだかよくわからないのですが)を選んで来たのでしょう。

 それに引き換え、後半で用意された曲は《展覧会の絵》。最悪です。ムソルグスキーが1874年に完成させたピアノ曲をラヴェルが1922年にオーケストラ用に編曲した作品です。この選曲があまり良くないと言いたい理由は幾つかあります。まず客観的な理由としては、ラヴェルのオリジナル曲ではない事。編曲されるより半世紀程前の曲(一時代前どころではない)であるという事。そして、このロシアの音楽がこの刺激的な演奏会の目的にそぐわないばかりか、《展覧会の絵》などいつでもどこでも聴けるという事。個人的好みの問題で言えば、まず《展覧会の絵》という作品がそれ程面白くない事(本当に好みですが)、どうせ聴くならフランク・ブラレイ氏のピアノ版を聴きたかった事。ラヴェルの編曲があんまりおもしろくないなどです。というか、ラヴェルとムソルグスキーって合わないと思ってます。ラヴェルの好むような音程はあまりないし、アレンジも打楽器が多すぎてごちゃごちゃしてます。いや、そういう事を言いたいんじゃないんです。結局、これはラヴェルの作品ではない。そこにつきるのです。
 演奏は、メロディ重視型のラヴェルの楽曲において、メロディ楽器のミスが多かったのが気になりますが、アプローチは良かったと思います。強いて言えば、もう少し、楽器間の構造がはっきりつかめると好みです。少しもやもやっとしてしまっている部分がありました。
 選曲については、モンフォール・ラモリ時代に純粋なオケのためだけの曲が《ボレロ》しかないので、難しかったと思いますが、それなら、モンフォール・ラモリという括り自体があまり必要無いのではないかとさえ思えます。ただ、この『フランス音楽の彩と翳』シリーズでは、すでに《ダフニスとクロエ》、《ステファヌ・マラルメの3つの詩》、《道化師の朝の歌》、《スペイン狂詩曲》、バレエ音楽《マ・メール・ロア》が取り上げられていますし、今後も《ラ・ヴァルス》が決まっているので、ラヴェルの管弦楽作品も品切れ的ではあるのですが。ただアンコールで演奏された《クープランの墓》のメヌエットの音運びがとても良く、楽器のバランスも秀逸な演奏だったので、できれば《クープランの墓》全曲を取り上げて欲しかったです。

 というわけで、前にレポートした『スペインの燦き』もそうですが、どちらの企画も、下手に何かで括ろうとしたのが(スペインとか、住んでた場所とか)もったいないような気がしますが、それもあくまでも僕の個人的な好みの問題なのでしょうね。
矢崎彦太郎presenteフランス音楽の彩と翳 vol.9 『モンフォール・ラモリの丘より』指揮:矢崎彦太郎、ピアノ:フランク・ブラレイ、東京シティフィルハーモニック管弦楽団 他


2004/02/22→『スペインの燦き』M.ラヴェル

at 新国立劇場オペラ劇場
 唐突ですが、クラシック好きの僕ですが、好きな作曲家を一人あげろと言われれば、断然、フランスの作曲家、モーリス・ラヴェル(1875-1937)なのです。というわけで、2月の新国立劇場での『スペインの燦き』についてレポートします。

 新国立劇場の『スペインの燦き』は、ラヴェルのオペラとバレエを一夜にして上演しようという興奮物の新制作公演です。まずオペラです。ラヴェルは小規模のオペラを2つ作曲しています。《スペインの時》と《子供と魔法》です。どちらも上演機会が少ない作品です。僕は明らかに《子供と魔法》の方が好きだし、演出のやりがい、見物としてのおもしろさ(イリ・キリアンのバレエ版でも分かるように)、メロディの耳触り(《スペインの時》は言葉に忠実なのであまりメロディ的ではないのです)取り上げるならこっちだと思うのですが、『スペインの燦き』という事なので《スペインの時》なのでしょうね。それでも上演機会の少ない作品を鑑賞できただけで幸せでした。
 演出は時計屋の雰囲気をいろいろな小道具を使って表現していましたが、新国立劇場のオペラ劇場というハードをもっと駆使しても良かったような気がします。ジョン・健・ヌッツォのぎりぎりでの降番も残念でした。直前のオペラトークでは、役柄に対する思いを語っていたのですが。それでも、グラシエッラ・アラヤ、彭康亮、クラウディオ・オテッリ、ハインツ・ツェドニク、ジョン・健・ヌッツォに代わって登場した羽山晃生も頑張っていたと思います。みなさんフランス語圏の方ではないし、こういったレパートリーにならない地味なプログラムに参加するという事は素晴らしい事だと思います。ただ、作品自体も含め、演出、美術、歌唱ともに、「きらめき」に欠けるのが残念。ニコラ・ムシンの演出は、あまり小気味よさがなく、キャストの動線も鈍くて緩慢。エンディングはピンクの配色と巨大な女性の足が天から降りて来るのはポップでしたが、そうすることに意味があるのかどうかが不明瞭。
 続いてはバレエ《ダフニスとクロエ》。通常のバレエ版ではなく、コンサート演奏用にラヴェルがまとめた第2組曲です。ちょうどバレエ版の第3部にあたります。こちらはラヴェルの代表作。階段構造を利用した演出、衣装共に花があって良かったと思います。オーケストラにとっても慣れている曲だと思われるので、無理なく聴く事ができました。しかしこの作品はギリシアが舞台で、演出的にもギリシアをイメージさせました。スペインはどこへ?
 次が《洋上の小舟》。これが問題作。女優の美加理さんの独り芝居になっているのですが、演出のニコラ・ムシンはアイディアが溢れているのですが、統御しない所があるようで、この作品などは、難しい所です。洋上の小舟はバスタブとして描かれているのですが、そもそもラヴェル好きの僕でも思う程、作品が凡作なのです(ラヴェルが演奏を禁じているのですよ)。そして、やはりスペインはどこへ??
 そして最後が《ボレロ》。ウェストサイドストーリーのような衣装の男女の群舞、かつボールや時計といった持ち道具を導入する振付けはなかなかきらびやか。想像とは違うボレロでしたし、ダフニスとの見せ方の差がとても印象的でした。やはり、ニコラ・ムシンは振り付け師なのだなぁと痛感。振付けはモダンバレエなのですが、清新でテンポよくまとめられていました。

*この公演については、新国立劇場のホームページhttp://www.nntt.jac.go.jp/に公演初日の写真が掲載されていますので、そのビジュアルをご確認下さい。

 結果的には『スペインの燦き(きらめき)』といっても、スペインなのは、《スペインの時》と《ボレロ》だけ。なんとも混ぜこぜの印象の強いプロダクションに。しかもラヴェルの名作とは呼べない作品も交じっており・・・。《スペイン狂詩曲》《道化師の朝の歌》などなどスペイン趣味の名曲は他にもあるのですが・・・。オペラトークで、芸術監督のトーマス・ノヴォラツスキーが語っていたように、オペラファンにバレエを見せ、バレエファンにオペラを見せるという草案にラヴェルが向いているとは思えないというのが本音でした。オペラファンが《スペインの時》を観たいと思うのかどうか?そしてバレエファンに改めて見せる程オペラとして傑作かという点につきると思います。僕はラヴェル・ファンなので、上演機会の少ないラヴェルのオペラは大歓迎なのですが・・・。スペインに拘泥しなければ、キリアンのようにオペラ+バレエで《子供と魔法》を取り上げ、バレエでは《アデライド(高貴で感傷的な円舞曲)》とか《ラ・ヴァルス》という、つまり『フランスのきらめき』の方が良かったのではないかなと思います。《ボレロ》は流石に盛り上がりましたが、演奏に迫力が欠けました。でもラヴェル大好きなので、なにもかも素晴らしいのです!!
 ちなみに事前に行われたオペラトークは、新国立劇場オペラ部門の芸術監督トーマス・ノヴォラツスキー自らがホストとなり、関係者に話を聞こうと言うイベントです。まずオペラに出演する5人の歌手(彭康亮、クラウディオ・オテッリ、ハインツ・ツェドニク、ジョン・健・ヌッツォ、グラシエッラ・アラヤ)とバレエダンサーの湯川麻美子が舞台に招かれ、フランス語で歌うことの難しさや、コンテンポラリーに近い振付けでの重心の置き方などについて語り、続いて美術・衣装のダヴィデ・ピッツィゴーニが登場し、すき間の空間を使った舞台作りについての持論を展開しました。続いて演出・振付のニコラ・ムシンが招かれ、ラヴェルの二面性について、また今回歌手でもダンサーでもない女優の美加理(全ての演目に登場する)の役割について演出的意図を明らかにしました。「まるでラヴェルの幽霊と仕事をしているようだ」と嬉しい言葉も。最後に指揮者のマルク・ピオレが登場し、ラヴェルの音楽についてや、音楽史におけるラヴェルの位置付けなど興味深い話を展開しました。
新国立劇場新制作『スペインの燦き-ラヴェル〜バレエとオペラによる』指揮:マルク・ピオレ 演出/振付:ニコラ・ムシン 東京交響楽団 他


2000/08/05→オペラ『真夏の夜の夢』B.ブリテン

at オーチャードホール
このレビューを観ているとオペラ好きのように思われるかもしれませんが、実は、それ程オペラ好きではありません。というか、代表的なオペラ作曲家の代表的なオペラなんか、ほとんど観た事がないのです(値段が高いというのもあるが)。まず、オペラと言えば、イタリア、ドイツ、ロシアあたりが代表国ですし、年代的にはモーツァルトからロマン派ぐらいが主流です。この『真夏の夜の夢』は、イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンの代表作ですが、ブリテンはロマン派的ではないとは言えませんが、現代の作曲家ですし。要するに現代オペラが好きなのかもしれません。
 「真夏」というくらいで、この日は猛暑の渋谷でした。現代音楽と書きましたが、ブリテンは、現代の作曲家ですが、調性から離れる事はなく、音楽的に、ちょうど、僕の好きな辺りに位置しています。ブリテンはゲイでピーター・ピアーズというテノール歌手と出来ていたので、ブリテンの声楽曲、オペラはほとんど彼の為に書かれています。
 このシェイクスピアの名作をオペラ化した幻想的な作品の配役は実に多様で、冒頭の妖精たちは少年合唱、オベロンはカウンターテナーが受け持ちます。そして、パックは歌ではなく台詞のある役になってます。今回の公演は、少年合唱が女声に置き換えられていて、せっかくの愛くるしいイメージが湧きません。あと、オベロンが女だと、ちょっと宝塚っぽいですね。まあ、オペラにはズボン役というのがありますけど(衣装のせいかも)僕はボトム役の小鉄さんが素晴らしかったと思います。『狂っていくレンツ』の時も良かったけど、ボトムもはまってました。衣裳もかわいかったし、ろばの頭をかぶっての演技も楽しかったです。
 オペラ用に舞台転換ができる劇場ではなかったというのもあるのでしょうが、美術は、抽象的で、月をイメージしたシンプルな舞台でした。もう少し「豪華さ」や「美」や「グロテスク」など何でも良いんですが、とんがった部分が欲しかった気はします。それでも、一つのからくり箱の中での物語のようで面白かったです。特にパック役は歌ではなくて台詞だからリアリズムもあったし。音楽的にもシェイクスピアの言葉をほとんど変えずに作られています。多分、英語での上演は日本初演じゃないかな?もし、日本語翻訳版だったら僕は観に行かなかったと思います。
 ところで、この題名の"A Midsummer Night's Dream"の『真夏の夜の夢』というのは本当は夏至祭りの前夜祭ってことなんですが、これからこの『真夏の夜の夢』を年末の『第九』のように日本の夏のクラシックの風物詩にしてはどうでしょうか??


2000/3/13 →『ファンタジア2000』ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ

at 東京アイマックス・シアター
 あまりに嬉しく、あまりに素晴しい作品。《ファンタジア2000》は、当然《ファンタジア》(1940年)の続編ですから、なんと60年振りのパート2になります。日本での公開は、多分1963年ですから、37年振りということになります。これだけ、時間がたって続編が出るというのは、すごいことです。62年にはじまった「007」シリーズがこれまでに何本作られたことでしょう(笑)。それだけ、《ファンタジア》にかかる労力、イマジネーション、そしてなにより、芸術性と、並外れた実験性が感じられるというものです。《ファンタジア》のLDのボックスセットが発売されるとすぐさま買いましたが、今や、もうLDは死語ですよね。
 さて、前置きが長くなりましたが、《ファンタジア2000》ですが、今回は、前作からの一曲と新作7作の8作からできています。そして、その合間にジェームズ・レヴァインを始めとする、様々なプレゼンターのコメントが入ります。1曲目は、ベートーヴェン《交響曲第5番》から第一楽章です。《ファンタジア》と同じように、絶対音楽と標題音楽の分類のようなコメントがあってから、今回も絶対音楽に抽象的な映像という作品から始まります(前回は《トッカータとフーガ ニ短調》)。三角形が二つ組合ったちょうど蝶々のような幾何学模様が、画面いっぱいに飛び散る様にまず、感動です。チラシには善と悪の対決の物語と書いてあるのですが、そういう風には見えませんでした。2曲目は、レスピーギ《ローマの松》にのって、巨大な鯨の群れが空を舞います。鯨がなんとも写実的で、ちょっと怖い印象がありました。鯨が数を増しながら飛んでいくだけのイメージですが、あの音楽のクレッシェンし続けるエンディングと相まってそうとう目を奪われます。3曲目は、ガーシュウィン《ラプソディー・イン・ブルー》です。前回はアメリカの作曲家は一人もいませんでしたから、今回は期待がかかります。これは演奏もなかなかのものでした。絵は途端にコミック調の平面的なものになって、一昔前のマンハッタンでの人間の生き様が描かれます。ところが、これが感動作で、はっきりいって泣けます。今回は、前回に比べて、感情移入できる人物やストーリーが全体的に作られていますね。人間を描いた作品というのは、前回にはありません(《アヴェ・マリア》に巡礼者が出てくるくらい)でした。
 4曲目は、ショスタコーヴィチ《ピアノ協奏曲第2番》からアレグロで、これは相当マニアックな選曲です。というのは、実は、お話しはアンデルセン童話の「錫の兵隊」で、これはお話しが先にあって、それに合う曲を選んだということですが、まさにぴったりですね。5曲目は、サン=サーンス《動物の謝肉祭》のフィナーレです。「もしも、フラミンゴの群れにヨーヨーを与えたら」というストーリーで、ヨーヨーを楽しむフラミンゴくんと、それを迷惑そうにするフラミンゴたちの愛敬あふれる踊りが、かわいい作品です。ちょうど、前作の《時の踊り》の継承作といったところでしょうか。そして、前作っぽくなってきた所で、6曲目は、前作からデュカ《魔法使いの弟子》です。この辺りの構成は見事ですね。当然、主役はミッキー・マウスなのですが、次の曲との間に、前回の指揮者であり出演者であリ、ジェームズ・テーラーとともに選曲を担当したレオポルト・ストコフスキーから、ジェームズ・レヴァインへ、バトン・タッチがあります(フィラデルフィア管から、シカゴ交響楽団へ)。そしてミッキー・マウス自身も、次の曲の主役、ドナルド・ダックを呼びにいきます。というわけで、7曲目、エルガー《威風堂々》です。「この曲を聞くと、卒業式を思い出す」というコメントがあって、アメリカでもそうなんだ、と思ったところに、ノアの箱船へ動物を誘導する仕事を任されたドナルド・ダックの物語がはじまります。いじわるなアニメーターたちによって、うまーく仕組まれて、ドナルドとディジーは、それぞれ、相手が船に乗り遅れたと思い悲しみます。船内では、何度も巧妙な擦れ違いが演出されます。これは、見事な娯楽作品に仕上がっていて、当然、ラストの再会のシーンには泣かされます。しかし、ソプラノ入の威風堂々は、僕は、好きではありません。8曲目、最後は、ストラヴィンスキー《火の鳥》です。前回は、《春の祭典》が恐竜たちの物語として登場しました。ちなみに、当然、ストラヴィンスキー(1882-1971)は、存命中でした。今回は、《春の祭典》と並ぶ彼の偉大なバレエ曲で、物語は冬、一頭のオオジカが、春の精を起こす所から始まります。妖精は、山野を駆け巡り花を咲かせますが、火山が爆発し巨大な炎の鳥となって、襲いかかり、妖精も、無残にも溶岩にのまれてしまいます。ディズニー大丈夫か?と思ったところで、灰の大地をオオジカが歩き、妖精を見つけます。しかし、彼女はがっくりし、春を招く勇気がなくなっているといった所です。オオジカは彼女を頭に乗せ、歩きだします。自分の涙が灰の下から花を咲かせたのを見て、妖精は復活し、山に春が来るという「死と再生の物語」になっています。これはとにかくアニメーションが強烈で、子供向け娯楽アニメを作っているディズニーとは明らかに一線を画するものです。全身が強烈なグリーンの裸体の妖精の飛翔感も素晴しく、ちょっと「もののけ姫」を思わせるのは、彼女の顔が、あまりヨーロッパ系ではない所からでもあるでしょう。火の鳥の登場シーンも、大迫力です。
 今回の特徴は、まず、観客に、分別の分かる層を狙っていることです。ストーリーと感情移入に関しては、《ラプソディー・イン・ブルー》のようなペーソスは、子供にはまったく分からないでしょうし、壮大な作品は、むしろ子供には怖いでしょうね(実際、客席にいた子供たちは、飽きるか泣くかしていたし、単純にディズニー映画だと思って子供を連れてきた親たちは、最初からその実験性に焦っていた・・・)。前回、多かったダンス系の作品(つまり、音楽にあった動きをするキャラクターのおもしろさ)が少なく、ほとんどが《魔法使いの弟子》を継承する、物語作品か、抽象的な映像作品になっていました。音楽的には、前回の《くるみ割り人形》や《時の踊り》《田園》のような、楽しく分かりやすいものが少ないというだけでなく、ベートーヴェン以外、全員19、20世紀の作曲家を選んでいる点が、この60年間の隔たりの意味を感じさせます。「20世紀最後の映像の祭典」と銘打ったのも、充分、達成できたと思います。蛇足ですが、現在、全世界のアイマックス・シアターで、先行上映中ですが(ですから、ほんとに一部の場所のみです。日本では東京だけです・・・)、このアイマックス・シアターは、画面の大きさ、それから音質もすばらしいので、できるならここで見てほしいです(それも、画面以外が視界にはいらないくらいの距離で)。さて、最後に、次のファンタジアが、60年後(85才になっちゃいます)なんてことのないように、みなさんで、祈りましょう。(2000/3/13/)
ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ「ファンタジア/2000」


2000/3/4 →《マッチ売りの少女》 H.ラッヘンマン

at サントリーホール
 ヘルムート・ラッヘンマン(1935-)のオペラ(場面付きの音楽)《マッチ売りの少女》の日本初演は、とても印象深かった。その印象を言葉で言えば、エキサイティングと贅沢である。クラシックの現代音楽のコンサートを観に行っていつも思うのは、現代音楽なのに若い、つまり今の世代の観客が少ないということだ。だが、今回の《マッチ売りの少女》の客層は比較的、いや相当若かったと思う。僕なんかの年齢層(25くらいです)もずいぶん来ていたし、小学生くらいの男の子を連れている親がいたのも印象的だった。《マッチ売りの少女》は、初演から3年たって日本に来た。それも、コンサート形式だから、実際の舞台ではない。それでも、これは早い。快速だ!そして、ある意味でコンサート形式では世界初演なのだ。コンサート前にラッヘンマンのプレトークもあって、この世界的な作曲家を目前に観ることが出来たのも、嬉しいおまけだ。
 さて、僕は、今まで、この作品を聴いたことがなかったので、この演奏が始めての聴取になる。それこそ、初演の快楽に他ならない。知っている音楽を聴くことになれた聴衆は、耳慣れた音響に、知っている事を確認して満足する傾向がある。それも、音楽を聴くことの魅力ではあるが、既存の曲ばかりでは、耳は衰え、音楽に対する感受性は慣性化してしまう。何故、ここで、こんなことを言い出したかというと、ラッヘンマンの音楽が、この音楽産業に飼い慣らされた「耳」への挑戦であるからだ。まず、膨大な種類の楽器と配置の変化。この音楽の編成はこうだ。まず指揮者のまわりに、弦楽八重奏、それを囲む形で、 6第一ヴァイオリン、6第二ヴァイオリン、4ヴィオラ、4コントラバス、6チェロ、左と右に4人ずつの四重唱、最右翼に手前からティンパニとパーカッション、ソプラノのソロ、ピアノ、最左翼に手前からパーカッション、ティンパニ、ソプラノのソロ、ピアノ。奥の列に2フルート、2クラリネット、2オーボエ、2ファゴット、2トランペット、2トロンボーン、4ホルン、1チューバがシンメトリックに並んでいる。さらに、2マリンバ、2シロホン、2ヴィヴラホン、チェレスタ、E/オルガン、笙、6台のCDプレイヤー、語り手、2ギター、2ハープ。びっくりである。しかし、それにとどまらない。なんと、会場の10箇所に10グループのバンダが配置されている。それは、下手から、聴衆を取り巻くように、4第1ヴァイオリンのグループ。パーカッション。フルート、クラリネット、オーボエ、ファゴット、トランペット、トロンボーン、2ホルンの管楽器のグループ。4重唱。4ヴィオラとチューバ。パーカッション。そして、対称に4重唱。管楽器のグループ、パーカッション、4第二ヴァイオリンとなる。また、CDプレイヤーの出力スピーカーも割り振られている。時折、ほとんどの演奏者が、発砲スチロール片をこすりあわせる。観客は、従来の舞台上に眼を釘付けにして、観ているものの出している音を聴くという簡単な行為に走れない。さらに、特殊奏法の多用。多用というより、ほとんど特殊奏法である。ピアノは内部奏法、シンバルはヴァイオリンの弓で、金管楽器は息を吹き込む音を、マリンバは、木の棒でこすられる。ボーカルは、舌打ちの音や頬をたたく音、手をこすりあわせる。この演奏が、エキサイティングで贅沢なのは、そういった「耳」への挑戦にある。エキサイティングというのは、分かると思う。なんといっても、それは新しい体験なのだ。特殊奏法は、現代音楽では珍しいことではない。例に上げた奏法も、別に今日始まったことではないし、聞いたことがないというわけではない。ただ、ラッヘンマンの提示した音楽は、それらの特殊奏法の見世物市ではなく、音楽の「美」を損なうどころか、純化させているようだった。思い出したいのはマッチ売りの少女が提示する音の数々だ。吹き付ける寒風、暖を取ろうとこすり合せる手、壁にマッチをこすりつける音。今回は、舞台がついていない分、音楽は、純粋で、シアターピース的にとらえることも出来た。音そのものが行為のように。だから、強いていうなら、舞台後方の大型スクリーンに表われる絵や映像は、ちょっと集中力を削ぐかもしれない(ただ、必要ないなどということはない。芸術作品に必要でないものなどない)。贅沢というのは、ある意味、後悔かもしれない。この音楽を聴いた後で、今までなんて乏しい音で満足していたのだろうということだ。ラッヘンマンは、別に新しい楽器を作ったり、電子音響を加えたりしているわけではない。既存のオーケストラから別種のサウンドを作り上げているのだ。これは、オーケストラの質的拡張である。今まで、何度も目にしてきたオーケストラという機械の完全に新たな機能を発現させたということだ。声もそうである。声は、あんなにも多彩な音を出せるではないか。多彩な特殊奏法に、緻密なオーケストレーション、まさに、無限に贅沢な音響だ。
 実は、僕らが、勝手に思い込んでいる西洋音楽の「美」なんてものは、たかだか数世紀に固執してできあがっ因襲なのでは?いや、因襲は構わない。それは伝統でもある。ただ、その因襲にいつまでしがみついているつもりなのだろうか、そんなことを考えさせられる。現代音楽の聴衆は少ない。はっきり言って、それを美しいと思っている人も多くない。けれど、今回のラッヘンマンの音楽を聴衆はきっと受け入れたし、十分美しいと思っただろう。少なくとも、僕は、美しいと思う。誰かが美しいと思えるものに到達できないのは、その他の人が決定した美しさに翻弄されているからなのだろう。というより、僕らの耳は、既に、音楽産業のベルトコンベアの最後の作業場として、作られた耳なのだということに、早く気がつくべきである。あれ?エッセイのつもりが・・・。
 いずれにせよ、相当な時間、労力、お金が費やされたプロジェクトだったろう。あれだけの楽器とトラを揃えるだけでも、すごいというしかない。少し、時代は戻るが、今度は、同じ童話からの作品ということで、シュニトケの《ペール・ギュント》なんかを取り上げてくれたらなぁ・・・。(2000/3/6/)
東京交響楽団第467回定期演奏会「21世紀への挑戦」。指揮:秋山和義、ソプラノ:S、レナード、森川栄子他(初演1997年)


1999/3/29 →《狂ってゆくレンツ》 W.リーム

at 新国立劇場小ホール
 初演から20年・・・。ヴォルフガング・リーム(1952-)の名は、実は、《和解のレクイエム》でしか、聞いたことがなかった。しかし、このオペラのチケットがまあまあ安かったことと、オペラ好きとして知られる実相寺昭雄さんの演出というので、興味をもった。ウルトラマンシリーズは、残念ながら一本も観たことがないが、「帝都物語」や「屋根裏の散歩者」なんかは、好きな映画である。彼と、音楽のつながりを知ったのは、サイトウキネンの《火刑台上のジャンヌ・ダルク》のLDを観た時だった。映像収録を実相寺さんがやっているのだ。彼は、オペラ演出も、《ヴォツェック》や《モーゼとアロン》など、現代を取り上げている。というより、オペラは、作品そのものの完成度もあるが、実は、演出家が勝負だと僕は思う。僕は、簡単に言えば、おもしろい演出が好きだ。新しい視点、おもしろい解釈、さらに言うなら、映像的な美、演劇的な緊張、こういったものが大好きだ。だから、多少、音楽を損ねても、斬新なものの方が、今は好きだ。ブーイングで結構なのだ(場合にもよるが)。紋切り型の、堅実な、定番の、時代考証に完璧な演出など、どうでも良い。ことは、その作品と歴史的音楽家である作者と現代に生きる演出家との戦いなのだ。忠実な作品は一つあれば十分だ。今、なぜ、この作品を見せるのか、なぜ、僕らに提示したいのか、それに答えられない演出でなければならない。単に「見直したいから」というのも良いし、「ファッショナブルにしたい」とか「現代の技術で」といった芸術的要素がなくても良い。とにかく、昔からやってるから、という理由で、見せられたくはない。そんな意味で、僕がオペラを観るとき(お金がないので、ほとんど映像だ!)重視するのは演出だ。というわけで、この《狂ってゆくレンツ》も、実相寺昭雄さんの演出に、非伝統型の演出を期待してのことである。
 前置きが長くなったが、この小規模のオペラの印象はとても良かった。僕の好きな格子型の舞台(というより、三方の壁に四角い小窓がたくさんある)や、水槽を通して舞台に当てられる光り、たくさんのキャンドルを使った映像美、そして、芝居も良かった。とにかく映像畑出身の、まさに映画監督の冴え渡るビジュアル。そして、それに裏打ちされた心理面の演出も、難解なオペラを分かりやすく処理していた。リームの好きな(?)少年合唱も僕のつぼで。
 舞台は、新国立劇場の小劇場(日本初のオペラハウスなのに、どうして、意欲的な作品ができないの?インテリ向きの楚々としたオペラを高い料金で、というのがテーマ?)だったので、スペースとしても、ちょうど良い大きさだった。ただ、願わくは、高田みどりさんのパーカッション、素晴しすぎて、時折、観客の目が、舞台ではなく、オケピにいっていたこと。二階席からはオケピがまる見えなので・・・。さて、《狂ってゆくレンツ》もリームの代表作だが、彼には、もう一つ、モニュメンタルな作品がある。それハイナー・ミュラーの《ハムレットマシーン》(1983-86)だ。これを観るまでは死ねない。
東京室内歌劇団 30期94回公演 '98都民芸術フェスティバル参加公演 指揮:若杉弘、レンツ:大島郁雄、オーベルリーン:小鉄和広他(初演1979年)


1997/12/19 →《ロング・クリスマス・ディナー》 P.ヒンデミット

at パナソニック・グローブ座
 パウル・ヒンデミットは、有名なので、これは日本初演ではない。しかし、あまりお目にかかれない作品だということは確か。「ロング・クリスマス・ディナー」はソーントン・ワイルダーの素晴しい劇で、僕も、台本に触れ、その形式というか方法に唖然としたことがある。この劇で、語られるのは、ベヤード家のクリスマスの夜のこと。ただし、それは、90回のクリスマス・ディナーだ。つまり、この劇の中では、90年の時が経つ。
 さて、このオペラ、90年の時が経つ割に短い。これだけでは、一晩のプログラムを作れない。そこで、なんて、オペラ歌手たちによる、プレイ版を併演したのだ。これが素晴しい。一晩に、芝居とオペラ、しかも、日本語版の芝居を観た後だから、次のオペラを観るとき、字幕に気を取られなくてもすむ。これは、素晴しいアイディアだった。演出は、劇団四季の初期のメンバーであり、演出家、翻訳家として、海外の演劇を日本に紹介してきた青井陽治さん。オペラの演出は始めてだそうだが、「静かな演劇」ならぬ「静かなオペラ」だ。閉ざされた空間で、最低限のただし、緻密な動きと記号化されたふるまい。特に、死の扉の前に人が近づくときの、不安と緊張感は素晴しいものがあった。しかし、僕が、ここで特に言いたいのは、オペラより芝居の方が、格段良かったということである。オペラ歌手たちの演技力もさる事ながら、演出は流石に演劇の方が光った。こういう言い方もなんだが、こうして、比べて見せられた時、僕にとって、ヒンデミットの音楽はたいして魅力的に聞えない。言語の違いもあったかもしれない。しかし、「ロング・クリスマス・ディナー」の持つリアリズムがもしかしたら、オペラにはあわないのかもしれない。少なくとも、ヒンデミットの音楽にはどうだろう?また、今回は、本当なら33人の小オーケストラを要する所、2台のエレクトーンとチェンバロでの演奏になった。最新テクノロジーのエレクトーンは素晴しいが、代用というのは、センスがない。エレクトーンで楽器の音を模倣するのではなく、だったら、エレクトーンの音で勝負してほしい。そのためにヒンデミットの曲をアレンジすることに躊躇してはいけないような気がする。まあ、とにかく、東京室内歌劇団の活動は、日本の閉塞したオペラ界の光明にちがいない。野心作を期待します。ついでに、ブリテンの《カーリューリヴァー》を再演してほしいです。
東京室内歌劇団 29期90回公演 指揮:千葉芳裕(初演1961年)


1997/9/18 →《ザ・ケイヴ》 S.ライヒ

at Bunkamuraシアターコクーン
 スティーヴ・ライヒ(1936-)とベリル・コロット(?)によるミュージック・ヴィデオ・シアター《ザ・ケイヴ》ほど、僕が、そして、日本の多くの人が待ちわびた初演があったろうか?この企画は、NTTのICCのオープニングを飾ったのだが、ICCのオープンに先んじて、発刊されていた「Inter Comunication」誌を読んでいた僕は、そこで、ケイヴの来日を知り、狂気乱舞した覚えがある。これを見逃したら、一生悔いが残る。二回は観たかったが、意外と高かった・・・。さて、ライヒほど、若い聴衆に人気のある作曲家もいないだろう。もう、一昔前の音楽辞典のように彼をライクという人もいなくなった。ライヒの名は相当知れ渡っている。それは、クラシック以外の聴衆にもだ。まあ、ここでミニマル・ミュージックの脱クラシック的な展開について述べるのは、意味がないので、避けるが、そういった事情もあり、会場に詰めかけた観客は若者が多く、クラシックのファンだけというのではないようだった。きっとアーティストを自称する多くの若い学生たちが、ケイヴに触れたことだろう。ヴィデオ・オペラというジャンルを生んだというケイヴの言葉であるミクスト・メディアやサンプリング、ヴィデオシアターインスタレーション、パフォーマンス、これらの言葉は、もはやクラシック、いやファイン・アートの垣根さえ飛び声、今やポップ・カルチャーの共通語にまでなっている。そこに、ケイヴの新しさがあり、多くの若者を動員した理由がある。従来のオペラがクラシック音楽というジャンルによって切り取られていたのに対し、ケイヴは、あらゆるジャンルから紹介・宣伝された。しかし、ケイヴの成立は1993年である。本当に、新しいのだろうか?
 僕は、ケイヴの音楽と、舞台のいくつかの写真を観たことがあった。だから、会場で始め体験するものは、その作品の100%ではない。しかし、それは、新しかった。というか、新しさを失ってはいなかった。ケイヴは演奏こそ困難だが(初日に行ったので、ミスが多かった)、耳当たりは良い。もともと人間の言葉の抑揚を音にしているのであり、そこにつく和声も転調こそ多いが、ミニマルな量で、ジャズ的なテンションにささえられた音であり、不協和音ではない。全体もイ短調に支えられている。ライヒは、90年代のアメリカに生きる自分の関心を引き付けるものを追及しているという。それは、ある程度、同時代の僕らの関心でもある。とはいえ、このアブラハムの物語は、聖書的であり、どんなに否定しようと政治的である。その辺の関心を日本の我々は十分、持つことが出来ないだろうが。当日、会場で配られたアンケートに、「アブラハムについてあなたが思い出すことはなんですか?」というような質問事項があった。これに答えられる日本人は少ないに違いない。もちろん、そこを無視して、ミクストメディアの快感を貪ることに全力を尽くすのも、ケイヴの見方の一つだろう。しかし、これを観て考えられることもたくさんある。ケイヴなどに、MTVカルチャーの影響を見て、それを肯定的にとらえない人もいる。ライヒやコローは、そのような大衆文化と呼ばれるものを積極的に歓迎している。僕も、大衆文化を見下す芸術家は、そもそも存在しないと思っている。しかし、この作品の場合、アブラハムやサラについてよく知らない僕らが、イスラエルやパレスチナの政治性(ライヒらはそこから離れるように努めたと言っているが、誤解をおそれずに言えば、彼らはユダヤ人である)を生活の枠組みにいれていない僕らが、そのテーマを切り離してケイヴを捉えてしまっては、それこそ、ミクストメディアの自立性の崩壊であり、MTVのヴィデオ・クリップと変らない(えー、ヴィデオクリップが悪いとか、劣っているって言ってるんじゃないんですよ)ことになってしまうんじゃないかな、と思ったことを覚えている。ケイヴは、単に音楽と映像の合体というのではない。現在の状況と芸術の合体なのだと思う。それにしても、インタビューでのカール・セーガンの答えはおもしろい。恒例のリクエストだが、ライヒとグラスの舞台作品はどんどん輸入すべきだ。ライヒの《スリーテイルズ》、グラスの《浜辺のアインシュタイン》、《航海》、《Monsters of Grace》など。というより、BAMのオペラハウスの提携すれば良いのに・・・。
ICCオープニングシリーズ 指揮:ブラッド・ラブマン(初演1993年)


1997/8/28 →《和解のレクイエム》

at サントリーホール
 《和解のレクイエム》はCDが先行していた。第2次世界大戦の犠牲者に捧げるこのレクイエムは、大戦の参戦国から14人の音楽家が参加し、完成させたコラボレーションであり、世界の一線の作曲家のコンピレーションとも言えるつくりになっている。ベリオ(伊)、ツェルハ(奥)、ディットリヒ(東独)、コペレント(チェコ)、ハービソン(米)、ノールヘイム(ノルウェー、北欧代表)、ランズ(英)、ダルバヴィ(仏、ブーレーズに代わり)、ウィアー(英)、ペンデレツキ(ポーランド)、リーム(西ドイツ)、シュニトケ〜ロジェストヴェンスキー(ソ連)、湯浅譲二(日本)、クルターク(ルーマニア)である。ロジェスヴェンスキーは、数に数えていない。1995年は、戦後50周年の年である。その年、シュトゥットガルド・ヨーロッパ音楽祭のために企画され実現したのが、この記念作品である。CDとしてリリースされているのは、そのライヴ録音である。クラシック版「ウィー・アー・ザ・ワールド」であるが、別に、収益金を寄付したりはしていない。
 さて、この作曲家陣は確かにすごい。しかし、全く文句がないというわけではない。まず、選ばれた国。ヨーロッパ音楽祭だから、分かるが、中国が入っていないのは、あまりにもおかしい。タン・ドゥンあたりに頼めなかったのだろうか。しかし、これだけのメンバーを集めるのは至難の業だったろう。それをやり遂げただけでも、賞賛に値する。
 さて、日本人の作曲家も加わっている以上、速やかな日本上陸が待たれたが、意外に早かった。95年の8月が初演だから、ほぼ2年で日本初演にこぎつけたのは、素晴しい。初演の指揮者で演奏権を持つヘルムート・リリングが、日本での演奏権を委譲してくれたからだという(誰にだ?)。この作品の困難さは、要するに、作曲家の数にある。彼等は、別に話し合って曲を書いたわけではない。それぞれが、レクイエムから一曲を担当し、勝手に書いたものだ。従って、求められている編成がまったく違う。ベリオは大オーケストラと大合唱を求めているし、ディットリヒは、膨大な打楽器を、リームはボーイソプラノを、クルタークはテノール・リコーダーを求めている。バンダ(舞台裏などで演奏)も要求される。それに、現代音楽や初演というのは、そもそも今まで演奏したことがない、ということであって、それは、レパートリー方式でやっている楽団にとっても、労力と時間を必要とするものなのだ。
 実は、この初演を聞いてから、随分たつのだが、その時のことをよく覚えていない。音楽自体は、今でもCDで聴くのだが、そういった印象と混ざってしまって、日本初演の演奏については、思い出せない。すいません。今度は、より簡単なアンドリュー・ロイド=ウェッバーの《レクイエム》をやってください。
サントリー音楽財団サマーフェスティバル1997「音楽の現在〜海外の潮流〜」指揮:大野和士、東京都交響楽団、ソプラノ:豊田喜代美他(初演1995年)


1996/10/4 →《エル・シマロン》 (逃亡奴隷) H.W.ヘンツェ

at 東京ドイツ文化センター
 1996年はハンス・ヴェルナー・ヘンツェ(1926-)の生誕70周年記念だった。この時、《エル・シマロン》と《ロイヤル・ウィンター・ミュージック》が演奏された。このうち、僕は、《エル・シマロン》の日本初演を観た。東京、青山にある東京ドイツ文化センターのホールで、なんだか、ひっそりと身内のパーティーのように行われていた。実は、かつて、このセンターにドイツ語を習うために通っていたことがあった。新聞で、この演奏会の記事を見つけて、招待に応募したら、当たった。こうして、久しぶりに、そこへ行ったというわけだ。僕は、その時、始めてヘンツェの名前を聞いた。
 当日、コンサートは、そう大きくもないホールにパイプ椅子を並べて、しかも、ヘンツェの要求するパーカッション類が、そのホールのステージに乗り切らなくて(!)ホールの後ろ前を逆にし、ステージではないホールの後ろを舞台にしていた。さて、現代音楽の日本初演というのは、当時の僕には、冒険だった。それがどんなことなのか、よく理解していなかった。聴衆は明らかに、三つのタイプに分別できたと思う。1.音楽評論家やプレス関係者、2.主催者が招待した客、3. ドイツ人。若者の姿は一つもなく、客たちは、セクトを作ってリベラルな社交会とでもいった風に雑談をしている。同年齢の人がいたら、確実に話しかけたい状況だった。一名様を招待するのもどうかと思う。まあ、ペアだったとしても、一緒に行ってくれる人はいなかっただろうけど。まぁ、しかし、音楽が始まれば、そんなことは関係ない。
 《エル・シマロン》は4人の奏者によって演奏される。フルート、ギター、パーカッション、バリトンだ。しかし、フルーティストやギタリストの回りにも、パーカッションがある。よく鉄の檻のようなものに様々なパーカッションがくっつけてある、あれだ。なるほど、ステージには乗らないな。つまり、パーカッショニスト以外も、打楽器を扱わなければならないのだ。そして、パーカッショニストは遠くの打楽器を叩くため、ステージをよく移動し、バリトン歌手は、鎖の束を床に叩き付けながら歌う。僕が、最初に体験した日本初演が、この作品だったことは、幸運だった。限られた4人の音楽家と、和声を出せるたった一本のギター、そして、知的でありながら、激しい演奏にも躊躇のないバリトン。観客と同じ高さ、そして近い距離。コンサートというより、ライヴだった。実験的な音楽語法に多くのラテンパーカッションによる、キューバのダンス音楽が引用される。実は、僕は、その時の録音をMDに落としていた。しかし、不幸なことに、それは消してしまった。CDが出るからいいやと思ったのが悪かった。それとは関係なく、記念としてでもとっておけばよかった。ところで、CDはでてるのかな?
フルート:ロバート・アイトケン、ギター:ラインベルト・エヴァース、パーカッション:ミルシア・アルデレアヌ、バリトン:パウル・ヨーデル(初演1970年)


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