Chapter2-3 クランケ001
あなたを私に対して
裏切り者だと教えた昼の光から
私はのがれたかったのですわ。
----R.ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」

 センターによる亡命者の臨床報告 NO.001

 「被験者。東方系、男性。二十代後半。肉体は頑健。ただし、東方系については留保つき。亡命者の一団の臨床実験においてもっとも顕著な逸脱性を見せたこの被験者には、特別なプログラム下で、睡眠中の判断中枢増幅剤を投与した所、以上のような睡眠下幻覚があらわれた。この幻覚を分析した結果、当該患者は、紛れもなく英雄であることが確認された。特にその逸脱行動の合理的解釈においては、卓越した判断力を伴い、幻想性、無意識性においても、通常数値以上の英雄度をマークしている。」
「なんなのよ、あれは?」
「あなたを男だと思っている所なんて最高じゃないですか。それにしても、あのペニスで・・・」
「判断中枢増幅剤は、男性には、性的な刺激になるわ。それはデータから割り引いて考えるべきよ」
「わかってますよ。わたしだってこのプログラムの責任者ですよ」
「だったら、余計な口叩いてないで、早く検視を続けなさい」
「はい。ドクター・エイチッチ。ごほん。後半、彼の残酷な衝動が打ち切られ、カワホリーと名乗る化け物の作った夢であったというくだりには、明らかに、判断中枢増幅剤の効能の低下が見られる。こんなものですか?ドクター」
「そうね。でも、判断中枢増幅剤の効き目はまだ持つはずでしょ。第1レベルの効き目はまだ続いていますが、おそらく、被験者自体の衝動が増幅しすぎて、判断中枢の切り替えが行われたんでしょう。えーと・・・そこ。そこで、止めて。いえ、少し戻してくれる。ここね。ここで、一瞬、レベルダウンが見られるわ。判断中枢の切り替えというよりも、肉体的遮蔽措置じゃないかしら。」
「PPDですか?」
「そう。ここで、ドアの外に駆け出すという行為が、大きくクローズアップされてる。運動逃避の典型例だわ」
「なるほど、えーと、ああ、アドレナリンもここで」
「やっぱりね。彼は英雄なんかじゃないわ」
「では、ペテン師だと?」
「そうね。完全にね。でも、ペテン師も、最高のペテン師なら本物を凌駕することもあるわ」
「随分、高く評価しておいでですね。ところで、ドクター、ここの赤い印のところを見てください」
「なーに。初歩的な幻覚度チェッカーじゃない?こんなのまで測定してたの?」
「あらゆるデーターをという命令ですから」
「私はそんな命令を出した覚えはないわよ」
「ええ、そうです」
「ええってあなた・・・」
「この部分、なんだと思います。全部、あなたの、いえ、エイチッチ小尉のいる場面なんですよ」
「どういう意味よ」
「ものたりないような夢から覚め、ふたたび生活の喧噪の中に戻ると、人生の絶え間ない流れが、恐ろしさをもって迫って来る事がよくあります。つまり、命令を出したものの、真意じゃありませんかねぇ。ドクター。おわかりでしょう。この被験者は高度な幻覚判断力を備えています。その被験者が、エイチッチ小尉、あなたを幻覚として判断している。つまり、ドクター・エイチッチ、おわかりですよね。ここに、一つの疑惑が生まれるわけです。あなたが被験者の幻覚の産物ではないかというね。」
「なにを・・・いえ、誰の命令なの?」
 その質問をワイイは待っていた。しかし、彼は良識ある間を2、3秒置き、自分は、本当はその質問に答えたくないのだという意思を表示して見せた。エイチッチは彼の意図的で保身的な、いつもの演技を見逃したわけではなかったが、それに優る疑念が彼女を瑣事にはむかわせなかった。
「それは、ちょうど、外部の暗い所から、音楽が聴き取れなくなるような距離で眺めた時の舞踏会場の踊り手たちのゆれ動くのに似ています。ドクター、ご存じのように、わが国の法律では、幻覚の産物は医療には従事できないことになっています。そうと疑われるもの、被疑者もです。ドクター、いえ、エイチッチさん、私はこのラボの新たなマスターとして、あなたにお引き取りを要請するしかありませんな。」
 エイチッチは今度こそ、彼の独特のもって回った、そう、作られた感じのする口調に憤りを感じたが、それに優る疑念が彼女を瑣事にはむかわせなかった。
「ドクター・ワイイ?あなたは・・・」
 ワイイの脚本には、このような質問は書き込まれていなかった。だから、ワイイは彼女にアドリヴを吐かせる気はなかった。とかく、台詞まわしや、うさんくさい間にこだわるような役者は、自分の台詞を、まちがいなく述べることに誇りを持っている。
「ドクター。ドクターはいつでも私の尊敬の対象でした。だから、その身分を剥奪された今でもドクターと呼ばせていただきます。私だって・・・」
 ここでは、エイチッチの反論が欲しかった。それを遮ってこそ、次の自分の台詞の重みが観客につたわるのに・・・。芝居で間として許される最大の時間を彼は待った。しかしエイチッチは、まさに腑抜けのように、ぼーっと下を見ていた。これでは、魚に説教をするようなものだ。
「私だって、あなたをお父さんの二の舞にさせたいわけじゃあないんですから」 
 この台詞は、その前の間が、計算されていなかったために不様なものになった。しかし、言葉の底意が観客に、次なる疑問と興味を覚えさせたのはたしかだった。その雰囲気をまたしてもエイチッチは破ってしまった。
「わかったわよ。だけど、覚えていてね。私は、あなたにやめさせられるのではなく、国の法律に従うだけよ。」
 自分の計算を狂わせるエイチッチの芝居にワイイが失望を覚えるより先に、エイチッチは、退場した。一人残ったワイイ、誰にともなく、得意げに次の台詞を呟きながら、計器類の電源を消し溶暗となるはずが、台詞の途中で、照明家は、フェーダーを落としてしまった。
「人生は、無感覚で君たちの前に現れ、君たちが嫌悪の叫び声をあげて起き上がる事のよくある悪夢にも似ている」
 だいたい、「叫び声をあげて」の辺りで、溶暗。


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