Chapter1-1 船出・出帆・抜錨・発船
一粒の砂に世界を見 
一輪の野の花に天界を見 
一握のうちに無限を思い 
一時のうちに永遠を思い 
―――W.ブレイク 

  グッド・ナイト・デカダンス!
 それはあまりにも突然あらわれ、同様に過ぎ去った歴史のヒトコマにも及ばないしごく私的な活劇(ドラマ)にすぎない。といって、いたずらに理由もなく、買い主の一瞥の下、爪の中央で無惨に潰されるオランダ猫の蚤以上の価値は確実に見出だせる。私は確かにあの女をこの薄汚ない港の倉庫、およそ何故例のドラッグの事件などはああも港の倉庫を連想させるのだろう、不潔極まったこのボックスがあれらの品々に与え得る数多の害害害、は懸念すらされないのであろうか、全能にして完善たる創造主が御前での不具者に与えたもうた唯一の完全物とでものたまうつもりであろうか、に入れた。どちらにせよ、あの女は昨日のあの沖のカッコウが盛んに騒ぎだした時間帯、丁度夕刻の四時頃であろうか、確実に倉庫の隅に我々が設けた檻の中で箱船の老人に丁寧に運ばれ、やがて生け贄となる運命を知らずに安らかなる一時を眠りに委ねる午後の動物達のように、寝ていたのに、寝ていたはずなのに。まるで、チェスのタッチ・アンド・ムーブ1 などまったく無視して「jadoube」2 も言わずに、裏に文字入りの金の指輪(リング)で僧侶(ビショップ)の駒の頭をかちかち鳴らす未亡人のように解せないゲーム感覚で、そう、ゲーム感覚で、物事を進めるあの女。金欲に目が眩み地獄何ぞを冷やかしに行くから、帰れなくなって、助けに出向いてやればふりむいては駄目などと、箴言か、警句か、それとも、そう、またもやゲーム!ゲーム!ゲームカンカク!。しかも曲がり道にさしかかったとき必然的に、誰かがイエスを殺したよりも必然的に顔の角度が変わっただけで、「振り向いた!!」と叫んで地獄の強兵どもをけしかけやがる。あの時仲間が催涙ガスを地獄が溢れ、煉獄に流れ込もうかというぐらい流し込まなかったら全くどうなっていたか。仲間によるとペルシア湾をクリスマス用にデリシャスにデコレイトした原油よりも多かったそうだ。で、ようやく連れ帰ってきて………この始末だ。またもや、逃走!逃走!逃走!。そうに決まっている。畜生。とは言え、探さざるをえんな。あの女の紅血はやがて我々の勝利の美酒にとって変わるのだから。変わるはずなのだから。
 クソッ!自分の言葉に嫌気が差してきた!もう「私」等というプラトニックでソシアルで主(かみ)が使うような人称代名詞を使うのはよそう。これはハードボイルドなのだ。「オレ」がいい。「ワタシ」ではイッヒ・ロマン3 になっちまう。とにかく、俺はワイルドな気分でいつもの同志たちを集めた。名前の紹介なんぞはしない。そんなことはあとあと、夫殺しの見上げた妻の罪のようにすーぐに判明(わか)ってくることなのさ!なぁ、フローラ!フローラ4 が誰かってぇ?夫を殺して川に投げ込まれた俺の友達さ!あー、俺が殺すようにけしかけたんだ。まあ、いい。俺の同志たちはなかなかの英雄揃い。ヒヰローってところだ!それから一人だけヒーローぢゃぁないのがいるんだ。ミュルミドン人の奴隷さっ。うちの寄生虫だ。ところが、奴は8ヵ国語を操るんだ。凄い才能!俺もびっくりだ。たかが奴隷がっ!!どっちにしろ役に立つものはなんでも使え、だ。利用主義と言われたって「錨をあげて」出航する。しばらくの間は逃亡したあいつへの「怒りを沈めて」だ。たしかに女は海路で逃亡したのだ。どこへ?カイロへ!ナンセンス!思考回路を整えろ?ウーン、ナンセンス!「懐炉はいるかーい、船旅は冷えるよ」「ひとつもらおうか」確実だ!「決定!女は海路で逃げ出した!」
 小気味の良い潮風は我々に、冷静(カームリー)な話し合いの場を提供(オファー)した。仲間の一人はニネヴェ産紀元前620年もののワインを開けると、ホメロスをして葡萄酒色の海5 と言わしめたつまらなさこの上ないこの水溜まりに一秒の約半分時間流した。流したなんてもんじゃねぇ。たらしただ。葡萄酒色の海に葡萄酒を流したら、流した葡萄酒の行く末などわからないはず!しかし、流れ行く葡萄酒は何でもないロハのミズの上で容易に見分けることが誰にでもできた。「ポセイドンに感謝を!!」バカッ、何ももらっていない奴に感謝など出来るかっ。しかも、美女を岩に縛って海獣に食わせるのが趣味6 のメタ=サドに感謝ぁー?と、思いはしたが口には出さず、舌で転がし、香りを楽しみ、喉を湿らせ、啖と混ぜ、侮蔑を込めて気違いが名付けた葡萄酒色の海に「ぺっ!」した。なにしろ口に出してポセイドンの悪口を言うと酷い目に遭う。航海条例7 が幾ら我々の航海を許しても、エンリケ航海王子8 が我々の航海をいかに奨励しても、この右手にかたく勘合符9 が握られていても、ポセイドンが駄目といったら駄目!皆しずんじゃう。特に機嫌の悪い日はポセイドンはバミューダ諸島周辺の海域にいってストレス発散をするんだとか。社会的権利とか、公民的道徳なんかは陸ではともかく海上ではないも同然!だ。ちっ!さすらう若者は朝の野原を歩けって事か!!
 二つの岩が湾を出る入江に大きな艦船が二隻すれちがえるくらいのスタンスで見えた。ポセイドンは心中お見通し!糞っ!巨石は船を迎えた。(ちなみに船の名をメネス号と言う)ああ、偉大で、寡黙で、母なる大海原に唾など吐いて、神よ、お許し下さい。けっ、無駄か!二つの巨石の間に我々の船が浮浪していって。そして、岩はゆっくりに見えるほどの速さで徐々に急激に閉まっていった10 。さて、ここまできてこんな言い方はないだろうが、俺は危険にも舳先で仲間の一人とゲームに夢中になっていて、実は気がついていなかった。チッペンデール様式11 の透かし彫の背もたれをもつ椅子に腰掛け、中国趣味(シノワリズム)のチェス(いつ頃つくられたか知らないがこのチェスは景徳鎮(チントーチェン)12 の陶磁器でできており、キングは皇帝、クィーンは皇后、ビショップが宦官!、ナイトは豪族、ルークは長城、ポーンは雑兵である)をしていた。俺のポーンは後ほんの一歩で女王への大変身(プロモーション)13 (雑兵は己のモノを失う代わりに後宮に使えるってことか?)を遂げようとしていた。刹那、刹那、(もうこのとき船の前半部は岩の間を抜けていたらしい)船乗員が例えば庶民なら、船乗員が例えばご婦人なら、きっと、迫り来る岩に悲鳴を上げたから、きっと迫り来る岩に混乱に陥ったから、俺は気がついただろう。乗っていたのが皆英雄だったから、彼等は戦きすらせず、一人で解決しようとするものだから、刹那、刹那、船体の後ろのほうがメキッと鳴って木っ端微塵に崩壊した。私はしかし、たとい英雄だといえ、悲鳴はいい、警句の一つも叫べないのかと思った。案・の・定、彼等は寝ていた。完睡、爆睡、激睡。そして、その直因は完酔、爆酔、激酔であって他の何者でもなかった。出航の美酒は彼等にあまりに安堵過ぎる眠りをお約束していたらしい。古来より「英雄、酒ヲ好ム」といって、彼等が飲み下だした量は船体が1メートルは浮かぶほどであった。ここで、諸君等はおかしい!と、いうのだ。樽から酒が消えても、人体に移るだけなのだから食料保存の法則に反するではないか!と。諸君らはオオバカモノではあるまいか?水を2t飲むと人の体重が2t増えるというのか。え?2tも飲めない?そら、言った!くやしいがそのとおりだ。5リットルしか入らない容器に20リットルを注ぐことは不可能だ。しかし、どうかな、もし、容器の底に穴があいていたなら。幾らでも入るはずだ。我々にだってこの穴はある。一つとはいわないが、これがなかったら食経験の長い年寄りほど体重が増えるはずだし。穴は海に直結しているのだ。この船のバラストは酒なのだ。まあ、下らない(何が下るかは考えなくて良い)話はここまでにして、巨石はとうとう船尾を飲み込み、徐々に岩が開いていくとプレスされた人間の肉片があたり一面にこびりつき、流れ落ち、糸をひいて、伸びた。圧搾機に大量の葡萄が投じられ、搾られ、美酒が流れだし、葡萄の皮やら茎やら実でない部分が変形して無残に残っているのに似ていた。地の葡萄を刈り集め、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ込んだというわけだ14 。私の対局をはっていた友人は残酷主義をあらわに、震える唇から幾分興奮気味に「ブラボー」と発声した。俺は自分の想像に胃を悪くしたらしく広大無辺の大海に数度、嘔吐した。友人は俺の嘔吐音を聞かないためにかラジオをつけ、ボリュームをあげた。聞き慣れたあの、あのメロディー!

<More than the greatest love the world has known.This is the love I'll give to you a lone…………>15

 友人はもう一度「ブラボー」と言い、俺はもう二度嘔吐した。
「もっと、もっとの世界がある。より多くの、より素晴しい愛を求める世界がある。」

 「血まみれ巨石(ブラッディ・ストーン)」を一瞥して船は暫く進んだがやがて風と共に沈み始めた。岩は鯨のように25人の精鋭とほぼ同数のラヴ・ロマンス、10人の船夫とほぼ同数の家庭を飲み込んで噛み砕いた(鯨の中にもものを噛む種類がある) 。俺の同志はなんとか12人生き残った。喉の炎症(アンギーナ)の痛みであまり酒を飲まず眠りの浅かった幸せな連中だった。船夫は亡くなった10人が全てだった。そして、ミュルミドン人8ヵ国語通訳兼奴隷も生き残った。真っ先に読者に紹介された人物だけあって、生き残るのは当然に思えた。13人?何と不吉な!呪われし数「13」!一瞬ではあるが一人海に投げ込もうと思った。勿論、ミュルミドン人8ヵ国語通訳兼奴隷を。しかし、そんな言い伝えを恐れるような惰弱な心がいまだに俺の中に残っていたのかと思うとはっきり言って反吐がでた。かれこれ俺がこの海に吐き出してきたものと言えば愚痴と文句と啖とげろ(=反吐)。あっ!、俺を入れれば14人だわ。
 ふと、チェスメンに目を下ろすといつの間にか敵のルークとビショップが俺のキングにダブルチェックを食らわせていた。これは多少の違いこそあれ、チェス好きなら誰もが知っているレティ対タルタコベール戦16 の最後に等しかった。
「投了(レザイン)」

 英雄の名前について。
 12人の英雄たちにはちゃんと名前があった。これはしごく当たり前のことである。ところが、彼等は自分の名前を人前でいうことはなく、ついつい忘れてしまったりする。私も含めここにいる英雄たちは皆、自分の名前を忘れた。それは、5年前だったり、10年前だったり、100年前だったり、と区々ではあるが、そういったフレキシブルなところが彼等の英雄たる所以なのである。そこで私は彼等に便宜上の名前をつけることにした。私はこの豪胆で残酷なチェスの天才にこの時のゲームに因んでレティという名を冠してやった。レティと私と仲間たちは13日間の漂流のすえ、一隻の観光船をジャックすることに成功した。私はこの13日間で20回レティに敗北した。チェスが苦手なのではない、その証拠に他の相手とならまずまずの戦いをして、勝率もすこぶる良い。しかし、そんな訳で、最近レティは威張りだし、横暴が目立つようになった。あくまでも私が主、彼等は従であることを分からせたい。
 ところで、俺が船倉で昼寝をしていると、爪を研いでいる仲間がいた、そいつにはネイルと名をつけた………。

1 1度動かそうと思って触れた自分の駒、あるいは取ろうとしてタッチした相手の駒は、それが動かせる駒である限り必ず動かさなくてはならないというチェスのルール。

2 チェスの試合中に駒がマスからはみ出していたりし、それを調整したい時、タッチ・アンド・ム−ヴの規制を解除するため、フランス語の「jaboude」と言い、駒を調整する意志を相手に伝えるのが慣習。

3 ドイツ語で、一人称形式の長篇小説を指す言葉。

4 フローラという名前はあまりにも多いので、引用なのかどうか分からない。H. ジェイムズの『ねじの回転』に出て来る少女とは無関係か?

5 エーゲ海の事。

6 アンドロメダの神話を指すとすれば、英雄の代名詞ペルセウスの冒険が想起される。

7 イギリスの海運、貿易に関する規制法。1651年の物が特に有名。Navigation Act。

8 ポルトガルの王子。新航路発見の推進者。Henrique o Navegador。

9 日本の室町時代、中国(明)との貿易に使われた渡航証明書。

10 もちろんギリシア神話の中で、イアソンの乗るアルゴ船を襲った動く島シュムプレガデスがイメージされよう。

11 イギリスのトーマス=チッペンデール(1718- 1779)がつくり出した家具様式。ロココ様式にゴシック趣味・中国趣味を取り入れた実用的なもの。特に、椅子が有名。

12 中国江西省北東部の工業都市。中国第一の陶磁器生産地として世界的に有名。

13 チェスでは、相手の陣地の最前列まで辿り着いたポーンは、キング以外の全ての駒に「成る」事ができる。この場合、たいてい、成れる駒の中で1番強いクイ−ンになる。クイーン以外に成る事は、特にアンダープロモーションという。

14 ヨハネ黙示録第十四章十九節にある言葉。「そして、その酒ぶねが都の外で踏まれた。すると、血が酒ぶねから流れ出て・・・」と続く。葡萄では無いが、果実を絞る機械の比喩は全編を通して多く見られる。

15 映画『世界残酷物語』の主題歌、「モア」は有名であろう。

16 1910年ウィーンで行われた試合を指す。


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