『F.L.O.O.D.』〜フラッド〜

ACT 3

私たち人間と、人間の喜びや悲しみ、記憶や野望、
自分自身と考えているものや自由意志------これらは実際には、
ニューロンの巨大な集合体の活動に過ぎない。
  ―――――フランシス・クリック(1962年ノーベル生理学医学賞受賞)

SCENE 7

国立覚醒医療院

  彦坂が、小野里に呼び出されている様子。
小野里この《国立覚醒医療院》が、通常の病院と特に異なる点は?
彦坂来院患者がいない事かな、いや、です。
小野里つまり?
彦坂歩けたり、話せたりする患者は、来ません。
小野里(苛立って)だから?
彦坂(小野里の苛立ちに応えて)通常の医者と違って、わめき立てたり、すすり泣いたり、激昂したりする招かれざるクランケたちと、カルテを漂流して廻るようなナンセンスな会話に神経をすり減らす必要がありません。
小野里(嘲笑して)お前にすり減るような神経があればこうして呼び出す必要はないんだよ。いいか、彦坂。お前の言った事は決して間違ってはいない。要するに、俺たちは、生きた患者との対話に慣れていない。そんな俺たちが、必要以上に、患者と接触をするのは、むしろ、害になるかもしれない。(小野里は、本心では怖がっているのだろう)
彦坂そうでしょうか?
小野里この医療院にいるのは、眠れる難民たちだ。家族や知人の所在も不明だ。相手は何時果てるともなく大量に存在する冬眠患者で、彼らは、普通、覚醒すると同時に治っているから、治療方法に付いても軽い説明で済む。それ以外の事は元永のような覚醒カウンセラーが引き受けてくれる。そうだろう?
彦坂はあ。つまり、我々は、肉体のメンテナンスだけをすれば良いと?
小野里そうは言わないが・・・
彦坂だめになったパーツの交換だけをしていれば、良いと?
小野里まあ、待て、彦坂。俺たちは修理屋じゃない。俺たちは、医者だ。だが・・・
彦坂(嫌味に)そうでしょうね。修理屋の給料はもっと安い。
小野里誤解するな、俺にだって・・・いや、呼び出して悪かった・・・。仕事に戻ってくれ。
  彦坂、一礼して退場。入れ代わりに、元永、現れる。
元永どうしたの?彦坂君。落ち込んでたわよ。
小野里覚醒後の患者にあまり、入れあげるな、と言ってやろうと思ったんだが・・・。
元永灯里さんの事ね。
小野里だが、俺に情熱がないだけなのかもしれない。なんだかんだ言って、俺は自分を修理屋だと思いたいのかもしれん・・・。
元永気にしすぎよ。
小野里彼らの幸せについて考えた事は?何十年も人知れず眠って、ある日、起こされる。知らない世界でね。それが、医療の与える幸福なのかな。
元永あなたもカウンセリングが必要なの。安くしとくわよ。
小野里(自嘲して)修理屋や機械工どころじゃない。ある日、いきなり、ある人間を世界に投げ出すんだ。無作為に、なんの了解もなく・・・。
元永神様みたい?
小野里(笑って)そうだな、悪魔でもこんな残酷な事はしないと思うよ。
元永あなたは、そうね。まだ、あの事を気に病んでいる。でも、本当は、もう立ち直っているのに、自分を信じ切れていない。
小野里・・・。
元永でもあなたは、責任を果たしていると思うわ。あなたが眠らせたわけでもない人たちを、ちゃんと目覚めさせている。当時の人間たちは、未来の私たちに対して何一つ、有意義な資源も残さなかったくせに、冷凍睡眠患者という義務を押し付けてきた。負の遺産ばっかりじゃない。
小野里いつの時代もそうかもな。
元永バイテク、ナノテク、ジェノミックスにプロテオミックス。21世紀は医学のコペルニクス的転換期だった。ほとんどの病気が治療できるようになった。にもかかわらず、どうして、人々は、あんなに熱狂的に睡眠治療を選んだの?人工冬眠業界のバブル的高騰。軽視された生命倫理。未来の世界を良くする努力もしないくせに、そこに行きたがるお粗末なユートピア願望。そして、非合法の組織により欠陥商品と化した睡眠。騒ぎがおさまってみると、30万人が、文字どおり死の眠りについていた。
小野里怒っているのかい?
元永憐れんでいるのよ。でも、ここの患者たちも、あなたたちが覚醒させていかなければ、そのまま死んでいくのよ。陸に上がれず、ボートの中で死んでいく難民たちのようにね。(語気を強める)だから・・・
小野里自分を低く見る必要はない?
元永励みになった?
小野里幾分ね。
元永丁度、ランチ一回分のカウンセリングよ。
小野里わかった。その前に、彼女のカウンセリングを手伝って欲しいんだ。どうも、私は嫌われているらしいよ。
元永(呟く)見る目がないのね。眼科医でもそれは、治せないか。

SCENE 8

トウ馬のマンション

  灯里がトウ馬のマンションを訪れている。
トウ馬(灯里にプレゼントしたサングラスを弄びながら)ふーん。お友達がコレに興味を持っているのね。
灯里そう、そうなの。詮索好きの友だちで、困るのよ〜。
トウ馬ふーん。これ、JBがくれたんだ、君の目の事を話したら、これを使えって。
灯里JBって、前に言ってた一緒に住んでるお友達?
トウ馬そ。
  灯里は、ふと、周囲を見回すが、この部屋に全く、同居人の存在がない様子に気付く。
灯里ここに一緒に住んでるの?
トウ馬う、うん
  時折、部屋の奥にあるコンピューターのような物が放つ赤い光りが灯里の精神をイラつかせる。灯里は、どうしても、誰かが一緒に住んでいるとは思えない。
灯里あのドアは?トイレ?
トウ馬そう。行きたいの?
灯里え?いえ、大丈夫。あのドアは?
トウ馬僕の寝室。行きたい?
灯里やだ。・・・まだいい。他には・・・ねえ。
トウ馬何?
灯里そのJBって人、どこに住んでるの?同じ部屋で寝てる?
トウ馬まさか。
灯里でも、彼は、どこにいるの?ほら、わたし、お礼をいわなきゃいけないし。
トウ馬おかしいな、さっきまで、いたんだけど・・・
灯里え?
  その時、赤い光線が先程より強く光る。
トウ馬あ、来たよ。JB。灯里ちゃん。
灯里JB?
トウ馬(JBに)どうして?なんで、怒ってるの?友だちを部屋に呼んだだけじゃないか?
灯里トウ馬、大丈夫?
トウ馬(JBに)悪い事をしたなら、謝るよ!
灯里何言ってるの・・・・ねえ、トウ馬、誰と話しているの?
  トウ馬はJBと会話をしているらしいが、その部屋には誰もいない。
トウ馬(JBに)JBが、会わせたんだろ?僕と・・・あ!
  その時、さらに強い光が放たれる。トウ馬は、突然、頭を押さえて、苦しむ。
トウ馬(JBに)JB。待って・・・・待って・・・・いか・・・・ないで・・・
  トウ馬、眠気に襲われたように気を失う。
灯里トウ馬!どうしたの。トウ馬!!どうしよう?
  灯里は判断に困って、携帯を取り出す。
灯里一昭、ごめん(助けて)

SCENE 9

バー“ムーニン”

  開店前の“ムーニン”に、一昭と灯里が、トウ馬を運び込んだ後。トウ馬は、ソファーに寝かされている。
一昭病院に運ばなくて良いの?
灯里ごめん。わたし、どうしよう・・・そうした方が良い?
一昭寝ているように見えるけど。
灯里動かさない方が良かったかな?でも、トウ馬の部屋、変な感じがして。きっと、いるのよ。
一昭いないよ。幽霊なんて。
灯里いるのよ。
一昭幻覚だろ?・・・薬は?
灯里薬って?
一昭あの・・・いわゆるドラッグだよ。
灯里やめてよ!わたし、そういうのやらないから。
一昭お前がやらなくても、こいつは?
灯里多分・・・やってないと思う。
一昭少なくとも、お前の前では?
  灯里、咄嗟に、一昭に食ってかかる。
一昭じゃ、お前、こいつの全てを知ってるのかよ?出身地は?親は?それから・・・
  灯里が、悲し気に、顔を背けるので、掴んでいた肩を揺さぶって。
一昭それから!サングラスの正体は??
灯里だから、言ったじゃない!JBにもらったんだって。
一昭どうしてジェームス・ブラウンがサングラスを・・・
灯里ジェームス・ブラウンじゃないって言ってるでしょ!だから・・・その幽霊よ。
一昭じゃあ、これは、何か?霊界のお土産か。誰が作ったんだ?鬼太郎か?子なき爺か?砂かけばばあか?
灯里(泣き声で)日本の妖怪だなんて、言ってない!!
  マスター、現れて
マスター何?なんの話し?水木しげる?
灯里限定しないで!!
一昭灯里、落ち着いて。マスター、ごめん。ちょっと場所借りてる。
マスター別に良いけど、何?寝てるの?
灯里マスター、ごめんね。私の知り合いなんだけど、ちょっと気分が悪いみたいで。
マスターほんと?平気?
灯里ちょっと、休めば、大丈夫だと思う。
マスターあ!灯里ちゃんの彼?  
  一昭、いきなり立ち上がる。
マスターごめん。あれ、でもどっかで・・・。
一昭マスター、水。
マスター(慌てて)水ね。
一昭(灯里に小声で)幻聴、幻覚、突然の混乱、ブラックアウト・・・ドラッグの症状だよ。客観的に考えろよ。そうだろ?
灯里でも・・・。
一昭じゃあ、JBってのは、透明人間で、こいつの側にいるのか?それとも、灯里の言うように、昔死んだダチかなんかで、幽霊になってこいつにとりついてるのか?一番、納得の行く説明は、どれだよ!
灯里一昭の言う事、よく分かる。でも、私、分かるの、トウ馬の事。変でも不審でもないの、理由なんてないけど、この人、私に似てるの、とても、近い感じがするのよ。昔から、知っていたみたいに。
  マスター、水を持って来る。
マスターいいな。恋は盲目ですね。
一昭マスター、話の全体を掴んでから言ってよ。
マスターごめーん。はい。これ。(水を渡す)
一昭(一息に飲む)
  間。
マスターあ、あのさ・・・、この彼、どっかで見た事あるなって思ってたんだけど・・・
一昭あるでしょ!この間の灯里の誕生日の日に、そこに座ってたんだから。
マスターいや、そう。そうなんだよ。僕が、入り口の看板を片付けてる時に、この彼に聞かれたんだよ。お店やってます?って。
一昭そうだよ。そう言えば、どうして、うちわだけのパーティーに部外者が入って来たんだ?マスターが入れたんすか?
マスターうん。だから、今日は、うちわだけの誕生日パーティーだって言ったんだよ。そしたら、その誕生日の人の知り合いだって言うから・・・。
灯里私の知り合いだって言ったの?
マスター言ったよ。だから、入れたんだ。
一昭偶然、知り合ったって言ったよな?
灯里鳴美が、連れて来たのよ。
一昭そんな事は、どうでも良いよ。どうして、こいつは、お前の事を知ってるんだ?いや、知っていたって、構わないけど、どうして、知っていないような振りをして、お前に近付いたんだ?
  一昭は、嫌悪感をもってトウ馬を眺める。
一昭起こして聞くか?
灯里やめて。お願い!
一昭そうだな。こいつが、正直に答えるとも思えないな。
灯里そういう言い方・・・
一昭眠ってる間に聞き出すか。
灯里どうやって?
マスター催眠療法だよ。
一昭マスター、さり気なく、会話に入ってこないでよ!
灯里(冗談でしょという風に)催眠療法なんて、だめよ!本人の承諾無しにそんな事できない!
一昭・・・分かってるよ。冗談だよ。
灯里(呟く)私、一昭が、そうやって、暴走する所が・・・。
一昭暴走!誰のために(やってると思ってるんだ)・・・いや、いいよ。ちょっと様子を見よう。
マスター灯里ちゃん。それ、例のサングラス?
灯里そう。トウ馬がくれたスーパーサングラスよ。
一昭触らない方がいいですよ。爆発するかもしれない。
灯里一昭。
マスターちょっと、見せてもらって良いかな?

SCENE 10

国立覚醒医療院

  小野里と彦坂の会話。
彦坂TVを観ていたようなものですか?
小野里そう。実際の風景ではなくてね。
彦坂そうか、そのサングラスの副作用で、彼女は・・・それが実験?
小野里いや、違うだろう。TVと同じ程度の危険性しかないと思う。もっとも、目医者から言わせれば、TVも十分危険だがな。
彦坂それより、小野里先生、僕が気になるのは、彼女が、涙を流すのは、悲しいからじゃないって奴ですよ。ただの反応だって言うんですよ。
小野里また、勝手に話をしているのか?
彦坂涙が出るだけで、悲しい訳じゃないって言うでしょ。確かに、悲しくて泣いてるって感じじゃないですよね。ただ、蛇口を捻ったら、水が流れましたみたいな。
小野里悲しくなくたって、涙は出るだろ?何年、眼科医をやってるんだ!
彦坂(自分に惚れ込むように)でも、ちょっと、そう微妙に、悲しそうにも見えるんですよ。僕にはねぇ。
小野里(意に介さず)どっちなんだね?
彦坂どうすれば、良いでしょう?なんとかして、彼女を励ましてあげたい。
小野里カウンセリングは、元永に任せておいた方が良いぞ。
彦坂悲しくないという瞳の奥に、ほのかな悲しさが漂う。悲しいのか?はたまた、悲しくないのか?
小野里病院に詩人はいらんぞ。悲しいか、悲しくないかは、眼科とは関係ない。もっと科学的に物事を考えろ!
彦坂どうやって?涙の成分分析でもしてみます?
小野里したさ。細菌やウイルスはなかった。
彦坂確かに・・・そうだ。ホルモンは?
小野里あ?食べたいのか?
彦坂違いますよ。ACTH 。
小野里ACTH?副腎皮質刺激ホルモンか。
彦坂そうです。確か、悲しい時の涙には、ACTHが多量に含まれていると。脳に過剰なストレスがかかると、脳内でACTHが作られる。これが、そのまま脳内に残ると、体機能を余計に緊張させてしまい機能不全の原因になる。だから、ストレスなどで悲しい時は、涙が出て、ACTHを排出しようとします。
小野里ストレスで涙が出るメカニズムだな!その線は考えていなかった。そうだ!いいぞ、彦坂。成分を調べてみろ!
彦坂分かりました。は、はい!

SCENE 11

バー“ムーニン”

  SCENE 9の続き。マスターが、灯里のサングラスを調べている。傍らに一昭が座っている。
マスターふーん。構造上は、普通のサングラスに見えるね。これ。ちょっとレンズが分厚いか・・・。それに、なんていうの?ほら、ヤクザの車みたいな・・・
一昭ブラックシールドね。マスター、詳しくないなら、見なくても・・・
マスターだけど、こんなに暗いんじゃ、見えないんじゃないかな?
灯里はっきり、見えるよ。市販のサングラスよりも。
マスター本当?どれ?
  マスター、サングラスをかけてみる。
マスターほら、真っ暗じゃ・・・あ!見えた。いや、見えて来たぞ。
  周囲を見回したり、サングラスの前に手をかざしてみたりする。
マスターそうか・・・なるほどね。おそらく、これは、あれだ。
一昭なに?
マスター発想の転換ですよ。このサングラスは実は、サングラスではない。
一昭マスター、もう良いよ。
マスターサングラスは、灯里ちゃんの目に入る太陽光線をできるだけ遮断しようとする。これは、完全に遮断している。
一昭それじゃ、真っ暗じゃないか。
マスターそう、真っ暗だよ。何も見えない。だから、映像で見せているんだ。
一昭映像?
マスター1990年代から、アメリカ陸軍が研究していた新しい戦闘服があるんだ。
一昭はあ?
マスターつまりカメラと受像機を複合的に持つ素材だ。これを使って服を作れば、背中の部分が自分の背景の映像を撮影し、正面の生地が、それを映す。つまり、背景に溶け込んで見える。
灯里それが・・・そのサングラスに?
マスターおそらくね。つまり、この表面がすべてカメラで、私は、サングラスの裏面に受像された立体的な映像を見ていたわけだ。いわば、ヴァーチャルなんだな。
灯里TVを観ているようなものって事?
マスターたぶん。
灯里だけど、どうして、そんな軍が造るような物を、トウ馬が持っているの?っていうか、マスターどうして、そんなこと知ってるの?
マスターえ?いや、思い出せないけど、いつかテレビで観たことがあるんだ。『なるほどザワールド』かなんかで。
灯里ふるっ。
一昭でも、変だ。灯里の目が、なぜ、実際の太陽には反応し、映像内の太陽には反応しないって、どうして分かるんだ。
灯里はあ、どういうこと?
一昭だって、そうだろ?このサングラスが、灯里の病気に効果があるって事は、つまり、これを作った人間が、灯里の目の病気に付いて熟知している可能性があるって事だろ?そうでしょ?マスター。
マスターいや、分からないけどね。
灯里それが、JBかしら?
一昭そいつなら、灯里の病気を治せるかもしれない。(興奮して)そうだよな?おい!トウ馬、JBってやつに合わせてくれ!おい!
灯里ちょっと。やめて。
一昭トウ馬、頼むよ。灯里の病気を治せるかもしれないんだ!
  灯里、驚いて一昭を見つめる。

SCENE 12

国立覚醒医療院 

  SCENE 10のしばらく後。
小野里どうだ?
彦坂検出されました。それも、かなりの量です。
小野里悲しい時にしか出ない物質だぞ。それでも、悲しく無いと言っているのか?
彦坂ええ、まったく、感情的には、何も変わらないそうですよ。
小野里(ほんの少しやる気が出て来た様子)そうか、元永に電話をしてくれ。カウンセリングを続けてみよう。
彦坂でも・・・いったいどういう・・・
小野里彼女が泣いているんじゃないんだよ。泣いているのは、彼女の脳なんだ!
彦坂ええ?
小野里(呟く)だから、病気じゃないんだ。思い出なんだ。

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