『F.L.O.O.D.』〜フラッド〜

ACT 2

自分の人生のさまざまな想い出の明るい層の下に、
別のものがあるという異様な感じに襲われたことがあった。
それらは計り知れぬもので、普段は意識されないのだが、
時として記憶の表面に黒くて丸い穴をあけにやってくる
―――――イゴール&グリチカ・ボグダノフ『盗まれた記憶』

SCENE 4

バー“ムーニン”

  現在。日本。横浜近郊にあるバー“ムーニン”。
 突然、クラッカーが鳴り響く。
全員灯里ちゃん!誕生日おめでとう。
  人の歓声が響き、賑やかである。灯里の親友の鳴美、バーのマスター、常連客の森村と田淵らがいる。
灯里(驚いて)え?どういう事?
鳴美(少し嘲るように)何言ってんの。自分の誕生日忘れてんの?記憶力ある?
灯里え?嘘?嬉しい。鳴美〜。(鳴美に抱き着こうとする)
マスター灯里ちゃん。おめでとう!
灯里マスター。
マスター(せき払い)みなさん、ご存じのように、本日をもちまして、我が、ムーニンの看板娘、灯里ちゃんは22才になりました。彼女がここで働いてくれるようになったのは・・・。
鳴美ここが地下で暗いからよ!
全員(どっと笑う)
鳴美オープンカフェなんかでバイトできないもんね。
灯里鳴美。
森村そんなにひどいの?
鳴美あたし、見た事あるの。すごいわよ。滝のようにバーっと。
灯里ちょっと。
鳴美光を見ると、ほとんど、条件反射よ。
田淵それじゃ、今日は、灯里ちゃんの涙で割ってもらおうかな。
鳴美あたしもすごいよ。梅干しを見るでしょ。そうすると、もうつばが滝のよう。どう?あたしのつばでわる?
田淵結構。
マスターわたしもあるな、そういうの。消毒薬の匂いを嗅ぐと、背筋が寒くなるんだ。きっと、小さい頃、注射された事を思い出すんだね。・・・
鳴美あ、それなら、私も、聴くと無性に悲しくなる曲があるわぁ。
マスターいやいや、それなら、わたしだって・・・
灯里マスター!
マスターおっと、ごめん。えー、とにかく灯里ちゃんがここで働くようになって、早くも3年が経とうとしています。
森村よっ、3年。
田淵や、森村さん。それ意味わかんないから。
  森村、とりあえず、拍手をする。田淵、意味が分からないので顔をしかめる。
マスターその間いろいろな事がありました。そうあれは、1年目の事・・・
鳴美マスター!もういいから。
マスターそ、そう・・・。
灯里わたし、そんなに働いてる?
鳴美働いてるわよ。あたしより長いんだもん。
灯里そっかー。3年か。
鳴美んで、彼と別れて1年。
森村え?なになに?彼と?
鳴美森村ちゃん。ちょっと、あっち(行って)。
森村えー。
鳴美来るかしら今日?
灯里そりゃ、来るんじゃない?
森村どうして?
マスターそりゃ、彼、ここのスタッフだもんね。
鳴美マスター!
森村え?誰だ?どいつだ?スタッフ。お前か?田淵。
田淵俺は客だろ?
鳴美ちょっと、移ろうか。(場所を移動する)
マスター灯里ちゃん。ごめんねぇ。
灯里いいのよ。
鳴美(移動先で落ち着いて)でさ、灯里・・・
森村(追って来て)そっかぁ。その病気のせいで、別れたのか??
灯里ちょっと、そんな事言ってないじゃない!(小声で鳴美に)何時から飲んでるのよ。
鳴美ええ、覚えてない。
森村病気のせいかい?ひどいねぇ。
マスター間違いない。病気のせいですよ。
鳴美マスター!
灯里ちがう・・・わよ。
  そこに、遅れて一人のスタッフが駆け込んで来る。一昭である。まわりの様子を見て。
一昭あ!そうか、灯里、誕生日だったな。
鳴美ご登場!どうする?隠れる?
灯里隠れてどうする。いいの。もう別れて半年だし。
鳴美1年よ。
灯里え?そう?
  周囲に響く馬鹿騒ぎの中で、一昭と決定的な別れにいたった際の会話が灯里の耳に蘇る。
一昭俺はお前の事は好きだ、けど、君の病気についての認識が甘かった事は認める。俺は、もう、君の涙を見守ってやることができないんだ。俺みたいなずさんな人間には、きっと君を守ることなんて始めからできなかったんだと反省してるよ。中途半端な気持ちじゃ、かえって、君にも迷惑をかけるし。
一昭灯里。おめでとう。
鳴美忘れてたくせに。
一昭忘れないよ。忘れたふりをしてただけ。
鳴美うそ。
一昭これ。プレゼント。
灯里一昭。
一昭ほらね。じゃ、俺、あっちで飲んでるから。話しあったら、いつでも来いな。
  一昭、遠ざかり、マスターらとしゃべっている様子。
鳴美かー。やな感じー。お互い納得した別れたんだから、後腐れはないはず。大人だから別れた後も良い関係でいられるはず、みたいな。そういう意味ね、それ。
灯里そう?
鳴美包装紙にそう書いてあるわよ。きっと、ちっちゃい字で。
灯里あ、○○だ。
鳴美つまらない物。
  再び、別れのシーンが甦る。自分の言葉が響く。
灯里分かった。私も思った。私の病気が、私を不幸にすることは我慢できる。でも、二人の関係が不幸になって、それで一昭が、不幸になっていくのは、二重の不幸よね。いままで、ありがとう。
鳴美勝手な男だな。(と吐き捨てる)
灯里ねえ、それより、さっきの話だけど、
鳴美え?なに?
灯里わたし鳴美より、長く働いてる?わたし来た時、鳴美いたよね?
鳴美いないわよ。何言ってるの。ちょっと大丈夫、失恋の後遺症じゃないの?これ以上、病気抱え込んだら、どこいっても働けなくなるわよー。
灯里そうね。
鳴美そうねじゃないよ。(笑う)楽しみましょ。どっかに良い薬があるといいんだけどなぁ。(森村と目があう)
森村え?なに?
鳴美あれじゃ、毒にもならない。
森村え?なに、土偶?土偶がどうしたの?
鳴美ちょっとトイレ。(席をはずす)
森村(鳴美に)ねえ、土偶がどうしたの?
鳴美うるさい!(歩き去る)
灯里(優しく)森村さん、大丈夫?何杯目ですか?
森村(無言で手招きをしながら近付いて)灯里ちゃんさ、光見ると涙出るんでしょ?良い事思い付いたんだけどさ。
灯里なんですか?
森村サングラスかけたら?
灯里(冷たく)ねえ、森村さん。そんな事試してないと思うの?  
  鳴美、見知らぬ男、トウ馬を連れて来る。
鳴美はい。薬、ゲット!
灯里え?なに?
鳴美ちょっと、森村さん、あっちいってて。(森村を引き離す)
森村おいおい。(離れる)
トウ馬どうも。
灯里ども。(こそこそと)なに?薬って。
鳴美(こそこそと)失恋の薬よ。
灯里(こそこそと)どういう意味・・・
鳴美(こそこそと)拾ったの。
トウ馬(こそこそと)聞こえてますよ。
鳴美(にっこり笑って)はい。ここ、座って。一杯、ごちそうするわよ。
トウ馬じゃ、お言葉に甘えて。あ、僕、トウ馬です。
灯里トウ馬・・・くん。
トウ馬呼び捨てで良いですよ。
鳴美あたし、鳴美。この子、灯里。とってもかわいそうな子なの、薬になってあげて。
トウ馬薬?
鳴美病気なのよ。心の。失恋のショックで・・・
灯里やめてよ。なんでもないのよ。
鳴美なんでもなくないのよ。記憶が混乱気味で・・・。本ッ当にかわいそうな子なの。
トウ馬へえ。
灯里違うの。本当に。違うのよ。
トウ馬でも。気をつけて、ストレスは脳に悪影響を与えるから。言いたい事言わなかったりすると、前頭葉 の抑えがきかなくなって、視床下部 が暴走するよ。
鳴美・・・?なにそれ。
トウ馬脳だよ。脳。ストレスを感じるとさ、ふくじんひしつしげき副腎皮質刺激ホルモン が出過ぎちゃうんだ。コルチゾールなんか濃度が高くなって、海馬 に受容されちゃうだろ?そうすると、神経細胞がどんどん脱落して記憶障害が起こるんだよ。
鳴美(自分が驚いて)ホントなの?いやだ、あたし大丈夫かしら?
トウ馬ストレス・・・ある?
鳴美あら、ご挨拶ね。
トウ馬ほめてるんだよ。
灯里詳しいのね。
トウ馬勉強してるからね。
灯里将来は、神経生物学者?それとも脳外科医?
トウ馬将来って何?
鳴美ちょっと訳わかんない会話しないでよ。
灯里とにかく、安心して、別に失恋の後遺症なんてないんだから。さて(時計を見る)あ!(鳴美に)ちょっと、どうして教えてくれないのよ。
鳴美何が?
灯里4時じゃない。帰るまでに日が出ちゃうわ。
鳴美いいじゃない。あ・・・よくないか?
灯里もう!
トウ馬え?どしたの?
鳴美この子ね。日が出てると外に出られないのよ。
トウ馬え?何、君レビヤタン ?
鳴美なになに?レビヤタンって。
灯里えっと、確か、旧約聖書に出て来る怪物。ヨブ記第3章の8。
トウ馬そうそう。
灯里そうか、「日を呪うもの」って書かれてる(笑う)。
鳴美すっごい、灯里、聖書なんて読むの。
灯里いや、別に、読まないけど。なんか知ってるわ。
トウ馬で、レビヤタンなの、それとも吸血鬼?
鳴美泣くのよ。
灯里泣かないわよ。太陽を見ると涙が出るだけ。
トウ馬ふーん。要するに光に弱いわけだ。
灯里太陽のね。
トウ馬家近いの?
灯里歩くと30分はかかる。
鳴美その間に、日の出。
トウ馬(席を立って)車なら間に合うね。送るよ。
灯里え?でも。
  鳴美、ひじで突く。
トウ馬(それを見ていて)送るだけだよ。
灯里そんな。疑ってないわ。
トウ馬急ごう。
灯里助かる。ありがとう。
  2人出ていく。一昭はその様子をじっと見ているだけだ。鳴美、一昭に近付く。
鳴美(一昭に)あんたにも薬になった?
一昭・・・・。

SCENE 5

国立覚醒医療院

  彦坂と小野里の会話。
彦坂誕生日か。いいですね。
小野里その22才の誕生日が全ての始まりだったんだそうだ。
彦坂なんだか、ありきたりの言い方ですね。
小野里まあ、そうだな。
彦坂それで?
小野里そのトウ馬という男に家まで送ってもらいその日は終わり。話はそこまでだ。
彦坂え?終わりですか?なんだ。
小野里あまり、おもしろくないだろ?
彦坂いや・・・まあ。
小野里ただ、彼が言ったんだそうだ。もったいないって。
彦坂でしょ?そりゃ、もったいないですよ。あの子奥手そうだし・・・
小野里いや、そうじゃなくて、きっと涙を流したら綺麗だろうなって。だから、その姿が見れなくて、もったいなかったって。そんな風に言われたのは始めてだったんだそうだ。さて。そんな所だ。
彦坂なるほど・・・聞きたい事とは随分、違うようですね。
小野里ああ、俺も、人の恋愛話なんかに興味はない。いずれにしても、彼女は、あまり積極的には話してくれないし、むしろ、話しはじめた事を後悔しているような感じを受けるな。
彦坂そうですか、それは辛いッすね。
小野里私も少し、後悔している。(彼女を覚醒させた事を?)
彦坂え?何にです?
小野里いや・・・いや、いい。そうだな、聞かなかった事にしてくれ。

SCENE 6

バー“ムーニン”

  灯里と鳴美の会話。
鳴美(感心するように)そう、それで、感動しちゃったんだ。
灯里そうよ。悪い?だって言われた事なかったもの。涙が綺麗だなんて。むしろ・・・
鳴美それで、ぐらりと来ってわけだ。で、どうだった?薬の味は?
灯里やだ。何もしてないわよ。
鳴美え?うそ?ぐらりと来たのに?
灯里そんな事言ってないでしょ。感動したって言っただけ。
鳴美(顔を背けて)つまらん。
灯里でも、そのあとデートした。
鳴美(乗り出して)なに?
灯里デートの誘われたの。でも断ったのよ。だって、ほら、目が。いくら奇麗だって、涙流しながら歩く訳にいかないし・・・。
鳴美(顔を背けて)じゃ、無理じゃん。
灯里それが!
鳴美(乗り出して)何?
灯里これ!
鳴美サングラスはさんざん、試したー。
灯里いやいや、鳴美さん。これ違うの!これ、すごい。平気なのよ!
鳴美うそー。欲しいー。
灯里必要ないだろ?
鳴美嘘なんでしょ?
灯里だから、本当だっての。
鳴美誰が作ったのよ。
灯里知らないよ。トウ馬がくれたの。「光をうまい具合にするサングラスなんだ」って。
鳴美「うまい具合にする」?随分、素敵な説明ね。なんか変な子よね。
灯里あなたが連れて来たんじゃない?
鳴美嘘?あたしが?
灯里ちょっと、やだ?酔っぱらってたんじゃないの??
鳴美とにかく、大丈夫なの?それ?
灯里・・・大丈夫よ。私、太陽から解放されたのよ。分かる?それがなんで、せめられなきゃなんないのよ?
鳴美せめてないでしょ。
灯里とにかく・・・トウ馬はね、とても不思議な人なのよ。なんか、うん。  
  トウ馬の部屋、トウ馬。ドアを開け帰宅する。
トウ馬ただいま、JB、あのサングラス、喜んでたよ。
  奥で、赤いライトが点滅する。
  対話のシーンは、灯里と一昭になる。
一昭それって、不思議な人で、済むのか?
灯里いいじゃない?不思議で。
一昭出身地も、親がどこにいるのかも、分からない。そんな、話を濁したような事を言うんだろ?
灯里だから、いいじゃない?今度聞くわよ。
一昭だから、聞いたら、そう答えたんだろ?その質問、良く分からないよって。
灯里ちゃんと聞くわよ。
一昭(溜め息を付いて、落ち着いて)別に、嫉妬してるわけじゃないんだ。
灯里してるじゃない?
一昭心配!(照れて)・・・してるんだ。
灯里(おざなりに)そう、ありがと。
一昭(ムっとするが、そのまま続ける)俺、おまえと付き合ってる頃、その病気をなんとかしようと思って、いろいろ調べたんだ。でも、なんにも解決できなかった。だから・・・(別れる事になったんだと一昭は考えている)
灯里それは、感謝してる。
一昭そしたら、何?変なサングラスで、大丈夫になったっていうだろ?俺もサングラスいっぱい買ったけど・・・だめだったじゃないか。
灯里だから、それは、感謝してる。
一昭感謝とか、そういうことじゃなくて。
灯里何?
一昭いいか?大学病院の眼科の先生だってさじを投げたような病気なんだぜ。いままで、この病気に通用するサングラスなんて無かっただろ?
灯里だから、どうしろっていうの?トウ馬にもらった、この、サングラスを捨てろっていうの?ねえ?
一昭いや・・・
灯里そういう事でしょ?やっと、やっと解放されたのよ!何十年も明るい世界に出られなかったのよ。(嫌味っぽく)出ても嫌な思いをするだけだから!だから、別れたんじゃないの!私が泣く。私が歩けなくなる。一昭が周りから変な目で見られる。一昭は責められているような気になる。厄介な病気だ。俺は、病気と付き合ってるんじゃない!別れよう。
一昭一方的に俺から別れたみたいに言うなよ!
灯里だって!
一昭・・・ごめん。たださ、もしかしたら、危険っていうか、なにか、副作用みたいな物があるかもしれないじゃないか。正体がはっきりするまでは、迂闊に使わない方がいいんじゃないかって、思ったんだ。それに。怒らないで聞いて欲しいんだ。
灯里(怒って)怒ってないわよ。
一昭(一応の返事で)そうだね。・・・・えっとー、そう、何十年も明るい世界に出られなかったって言っただろ?でもトウ馬は、突然、ここに現れて、灯里と会った。それで、灯里の病気にぴったりあったサングラスを持っているなんて、出来過ぎてないかな?
灯里いいじゃない。あたし、デキスギ君好きよ。
一昭関係ないだろ?
灯里ないわよ。じゃ、どういう意味よ?
一昭ですからね。君が、例えば、咽が痛いーって時に、あ、喉飴、なめます?ってのとは違うだろ?君のは奇病なんだよ。奇妙な病気?
灯里奇妙ッて言わないでよ。
一昭奇抜?
灯里いい!分かった。一昭の言うことも一理ある。一理あります。だから、こうしましょう。ようするに、このサングラスについてトウ馬にちゃんと聞いてみれば良いんでしょ。あと、出身地と、何?親がどこにいるか?聞いたら、報告するので!
  灯里、立ち去る。

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