フラッド 『F.L.O.O.D.』 四月は最も残酷な季節だ。 リラの花を死んだ土から生み出し、 記憶に欲望をかきまぜ、 春の雨で鈍重な草根を奮い起こすのだ。 冬は人を温かくかくまってくれた。 地面を雪で忘却の中に被い、 ひからびた球根で短い命を養い。 ―――――T・S・エリオット「荒地」 |
SCENE 1 | ある施設の庭 |
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今から115年後。未来だが、その事が分かるように示される必要はない。また、このシーンが未来であることも、表現されなくて良い。 西洋庭園風に美しく手入れをされた庭。車椅子にのった老人と、若い女性が向かい合っている。まるで、遠い昔の幻影のような初夏の光景。一面の緑。美しい音楽。 | |
灯里(録音声) | 四月は最も残酷な季節だ。リラの花を死んだ土から生み出し、記憶に欲望をかきまぜ、春の雨で鈍重な草根を奮い起こすのだ。冬は人を温かくかくまってくれた。地面を雪で忘却の中に被い、ひからびた球根で短い命を養う。 |
灯里 | 久しぶりね・・・。 |
SCENE 2 | 国立覚醒医療院 |
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115年後。日本。福島県檜原湖畔にある国立覚醒医療院 、眼科病棟。未来であることが明確に示される必要はない。 主任医師の小野里と助手の彦坂が会話をしている。小野里は40才になるかならないかという壮年の男。一方、小野里はおそらく医大を出て数年の医師。臨床より研究に長けた医師だと思われる。 二人は、医療院の廊下を歩きながら、あるいは、煙草の吸える休憩室のような公共の場を歩いているような感じだ。 | |
小野里 | (深く溜め息を付く、あるいは、煙草の煙りを吐き出す。) |
彦坂 | メンテナンスが最悪だったんです。先生のせいではありませんよ。 |
小野里 | (投げやりに)メンテナンスねえ。 |
彦坂 | それに、クランケの腎臓障害についてはカルテには記載がなかった。責めを追うべきは、彼を入眠させた医者ですよ。気に為さらないでください。 |
小野里 | その医者はとっくに死んでるだろうな。きっと。しかし、気にしているように見えるかな。これでも、呆れているつもりなんだが。 |
彦坂 | 呆れて? |
小野里 | 老人性白内障は治ったが、骨軟化症 だ。起き上がろうとして手首を折った。 |
彦坂 | 睡眠中の栄養素が完全に不足してましたね。腎臓障害もあったから余計・・・。くる病のような状態です。そして当然、身寄りもない。 |
小野里 | ここで、覚醒を待っている連中はみんなそうだよ。 |
彦坂 | 明るい未来のはずだったんでしょうが、ひどいもんですね。 |
小野里 | 医療なんてそんなもんだ。いつでも、人に明るい未来を与えられわけじゃない。 |
彦坂 | だけど、結局、眠ったままの難民ですよ。彼らは。未来が明るいってのが、そもそも悪い。グロテスクなウルトラロマン主義の奇形児ですね。 |
カウンセラーの元永が現れる。小野里よりはやや若い30代の女カウンセラーである。 | |
元永 | 評論家に就職するなら、知り合い紹介するわよ。 |
彦坂 | あ、元永さん。カウンセリングの調子はどうです? |
元永 | (ゆっくり諭すように)煙草! |
彦坂 | あ、すいません。(慌てて、消す) |
元永 | カウンセリングになんてならないわよ。(白衣のポケットから煙草を出して、火をつける)クランケ、手首、ぶらぶらさせて暴れてるんだから。拘束許可がおりたんで、カウンセリングは終わり。そっちは? |
小野里 | 俺は、老人性白内障は治したよ。仕事はしたさ。骨軟化症と骨折は、眼科の領分じゃない。 |
元永 | お互い、お役ご免ってわけね。 |
小野里 | 楽しくてやってるわけじゃない。何十年も前の難病患者を、こうして簡単に治していく。治せなさそうな患者は、そのまま眠らせておく・・・。治るモノだけチョイスして、ノルマをこなしていく。いっそ、機械にやらせた方が良いんじゃないかとさえ、思うよ。 |
元永、悲し気に小野里を見つめる。 | |
小野里 | どうした? |
元永 | いえ、別に。 |
彦坂 | そういえば、知ってます。先だって、人工冬眠者の信仰対象の統計をとった所、キリスト教の信仰者が圧倒的に多いんだそうですよ。なぜだと思います |
元永 | 復活の思想があるからって言いたいんでしょ。キリストを信仰する人は、冬眠にマイナスの印象が少ないわ。眠りからの覚醒って、つまりキリストやラザロ の復活にあたる。 |
彦坂 | さすが、元永さん。インテリだ。 |
元永 | そう言えば、聞こえは良いけどね。実際は、キリスト教圏の人の方が、他宗教の人に比べて裕福だからよ。 |
小野里 | 復活にも金がかかるってわけだ。 |
元永 | もちろん、貧困国や政情不安の国でも、わが子を飢餓や危険にさらさない為に、親がなけなしの金を作ってわが子を冬眠させるケースがあった。でも、ほとんどが、犯罪組織の劣悪な施設だったり、ひどい時には、冬眠と称して、臓器を売り払い、親が死ぬまで死体を氷付けにしていた。特に2020年代の混乱 は知ってるでしょ? |
彦坂 | よくご存じですね。 |
小野里 | 元永は、覚醒カウンセラーだ。睡眠治療に関しては、法的にも、生理学的にも、経済学的にも、もちろん心理学的にも精通している。俺やお前みたいな一介の目医者とは違う。 |
元永 | また。あなたは優秀な眼科医よ。彦坂君も、その舌くらい、手先が動くと良いのだけれどね。そうすれば、小野里先生のお役に立つ優秀な助手になれるのに。それじゃ、戻るわ。また、覚醒がある時は、呼んで。ま、毎日あるわよね。 |
元永、去っていく。 | |
彦坂 | もったいない。あれが、逃がした魚ですよ。 |
小野里 | 勘違いするな。彦坂。あれは、逃げたんでも、逃がしたんでもない。 |
彦坂 | では? |
小野里 | あいつの目が覚めただけだ。 |
沈黙。 | |
彦坂 | さってと、次はどの患者を起こしますか? |
小野里 | 何が、さってとだ。誰でも良い。いつも通りコンピューターに決めさせればいい。 |
彦坂 | ノルマは、今月はもう十分クリアしていますよ。失明患者だけを15人。全員光彩レセプター をナノテク注入 して終わりです。給料明細通りの仕事です。 |
小野里 | ナンバー通りだと今月は、あと何人、失明が続くんだ? |
彦坂 | えーと、四十・・・ |
小野里 | カメラ屋だな。 |
彦坂 | え? |
小野里 | レンズを治しているだけだよ。 |
彦坂 | でも、小野里先生が、今月の仕事を早めに片付けているのは、(言おうと決心して)後半に重篤な患者を覚醒させるためだって、助手たちが噂をしてます。僕もそのつもりなのかと思ってましたが。 |
小野里 | 俺は重篤な患者は起こさないよ。昔、重篤だった患者なら、起こすがね。 |
彦坂 | (勢いで)44号はどうですか?みんな、44号に手をつけるって、噂をしてますよ。 |
小野里 | 44号? |
彦坂 | あ、そ、そうです。例の第4クラスの病状不明患者です。 |
小野里 | 病状不明? |
彦坂 | あ、もちろん、眼病ですが、それ以外はほとんど、不明の患者さん。22才の女の子。可愛いかも。 |
小野里 | つきあいきれんな。で、その患者の入眠カルテぐらいあるんだろうな? |
彦坂は手早く、携帯端末を叩き、その表示を示す。空中に画面が投射される。 入眠年:2003年 入眠者名:unknown 入眠年齢:22才 入眠事由:なんらかの実験によると思われる原因不明の流涙病が 入眠当時の医療技術により不可能と診断されたため 入眠責任者:榎倉一昭 付記:裏面に詳細を記したインタクタコードを印字するものとする。 | |
小野里 | 2003年ねぇ。無意味な冷凍睡眠の流行期だな。 |
彦坂 | でも、実験による原因不明の流涙病ですよ。ちょっと面白そうでは? |
小野里、立ち去ろうとする。 | |
彦坂 | 先生、このスリーパー を起こしますか? |
小野里振り返る。 | |
小野里 | お前、俺が、この患者を起こすと、幾らの配当金になるんだ? |
彦坂 | え? |
小野里 | インタクタコード の解析データを、部屋に届けてくれ。 |
彦坂 | は、はい。え?僕、賭けてませんよ。 |
SCENE 3 | 国立覚醒医療院 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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覚醒した女性は、カウンセラーの元永により問診を受けている。女性と元永が向かい合って座っている。看護婦がその側に待機している。小野里と彦坂は、別室からその様子をモニターしている。元永 | 2003年という年の事を思い出せますか? | 灯里 | はい。 | 元永 | あなたはこの年、ある治療法を受けています。覚えていますか? | 灯里 | はい。 | 元永 | それはなんですか? | 灯里 | はい。人工冬眠治療を受けました。 | 元永 | その時、あなたは、何歳でした? | 灯里 | 22才だと思います。 | 彦坂 | 起こして正解だったでしょ。 | 小野里 | なぜだ?まだ、彼女が冷凍睡眠を受けた原因は分かっていない。治療せずに覚醒させたのだ。面倒はこれからだよ。 | 彦坂 | いや、少なくともタイプです。 | 小野里 | (無関心に)それは、良かったな。 | 灯里 | あの・・・。 | 元永 | どうしたの? | 灯里 | あそこのカーテン。窓ですか?外が見える? | 元永 | 見えるかしら? | 看護婦 | 見えますよ。 | 灯里 | 今日は、お天気? | 看護婦 | ええ。とても。カーテン空けます? | 灯里 | (逡巡して)カーテン・・・ | 看護婦 | カーテン空けます?そうよね。この部屋暗くて気分が落ち込んじゃうわ。 | | 看護婦カーテンに手をかける。 | 灯里 | あ、待って。 | | カーテン開かれる。明るい光が差し込む。突然、灯里が目を覆う。 | 元永 | あなた?(灯里にかけより、顔を覗き込み、驚く)先生を呼んで!早く。 | | 看護婦が部屋を飛び出すと。元永、急いでカーテンを閉める。再び灯里にかけよると、灯里の目から涙が溢れている。 | 元永 | すごい、涙・・・。痛むの? | 灯里 | 私は、大丈夫です。心配いらない・・・。 | | 小野里、看護婦と彦坂を伴い駆け込んで来る。小野里は急いで、その場で応急処置をする。 | 彦坂 | 眼病の患者なんだぞ!どうしてカーテンを空けたんだ! | 看護婦 | 部屋が暗くて・・・ | 彦坂 | 最も目に刺激のない光量に調整されているんだ! | 灯里 | やめて。その人を責めないで。私が頼んだの。まだ、覚えているか確認したくて。 | 小野里 | じっとしていなさい。痛みは? | 灯里 | ありません。ただ、太陽の光を見ると涙が出るんです。洪水みたいに。 | 彦坂 | 大丈夫? | 灯里 | ええ、・・・でも、ショックです。私・・・まだ記憶している。 | 小野里 | (看護婦に)君。 | 看護婦 | すいません。 | 小野里 | いや、問題はない。彼女を病室に。アイマスクを37度にしてベッドに。頼んだよ。 | 看護婦 | はい! | | 看護婦。灯里を支え、退場しながら、 | 灯里 | ごめんなさい。わたし。 | 看護婦 | (取り乱して)私こそ。 | 灯里 | いいの、ありがとう。 | | 2人退室。 | | 数日後。 | 小野里 | 光を見ると涙が出る、か。だが、痛みもないし、せんきせいあんてん閃<輝性暗転 もない。網膜の異常もないんだ。 | 彦坂 | カルテには実験によるとありましたよね。それが何か、彼女には聞きましたか? | 小野里 | いや、それは、まだ、時期尚早だと思うんだ。 | 彦坂 | (小野里の消極的な態度に憤りを感じて)時期尚早って。でも、実際、そこなんでしょ?先生が彼女の覚醒を決めたのは? | 小野里 | 元永のカウンセリングの所見だが、彼女は落ち着いて見えても、115年ぶりに、太陽の光を見た女の子なんだ。まず、その精神的違和感を取り除く方が、先ではないかと・・・。 | 彦坂 | 確かにそれは、そうですけど・・・例えば、レーザー治療の後遺症というのは考えられません? | 小野里 | どうだろうな。 | 彦坂 | 涙が出るとなると、鼻涙管閉息、涙嚢炎の線は? | 小野里 | そうなら、もっとめやにが出るはずだ。羞明もないようだし。 | 彦坂 | 光を見て涙が出るのに、まぶしがらないという事ですか? | 小野里 | そうだ。それに、お前が並べ立てたような病気は、彼女が入眠した時代に十分、治療可能だったはずだ。 | 彦坂 | はあ。じゃ、なんだとお考えです? | 小野里 | カルテにあった通り原因不明の流涙症だ。 | 彦坂 | なんの実験なんでしょうか?・・・ちょっと聞いてます?なんか、やる気ありませんね? | 小野里 | ・・・病気じゃない。 | 彦坂 | え? | 小野里 | 病気じゃない、と彼女は言うんだ。 | 彦坂 | 病気じゃない?じゃあ、なんなんです? | 小野里 | 思い出だと・・・。 | 灯里 | (舞台上、別の場所で)思い出です。 | 彦坂 | 思い出? | 小野里 | 思い出を治療できるかな? | 彦坂 | どんな思い出なんです? | 小野里 | どんな思い出なんだい? | 灯里 | 思い出せません。 | 彦坂 | 思い出せない思いで? | 小野里 | そう言っていた。そして、治療の必要はないとも。 | 灯里 | いいんです。それが大切な思い出だって事は分かってるんです。 | 彦坂 | でも、どうするんです。それじゃ、彼女、ここから一歩も出られませんよ。 | 小野里 | しょうがない。患者は、治療の必要がないと言っている。 | 彦坂 | しょうがないって、先生は医者でしょ?思い出が、病気の原因なんだったら、それを治療しないと。いや少なくとも、そうする努力をするべきです。 | 小野里 | ・・・分かっている。 | 灯里 | ここには、他に患者さんがいないんですか? | 小野里 | 覚醒した患者は、たいていは、すぐに退院できるんだ。あとは、寝ているよ。地下シェルターで。 | 灯里 | 私もそこに? | 小野里 | そう、地下21階にね。 | 灯里 | すぐにここを出る事ができますか? | 小野里 | いや、治ってからだ。申し訳ないとは思うが、覚醒させた以上、治るまで、退院の許可は出せない。 | 灯里 | でも・・・病気ではないんです。 | 小野里 | だけど、立派な、症状がある。思い出だと言うなら、それは、そのままで良い。ただ、私は、眼科医だ。その異常な涙の流出は止めたい。 | 灯里 | 思いでは、そのまま? | 小野里 | そうだ。それは眼科医の範疇ではない。ただ、カルテにあった、実験の事は聞いておきたい。病歴が不明では、治療に支障が出るからね。話してくれるね。 | 灯里 | お話ししなければ、退院はできませんか? | 小野里 | 病院というのは、治療が済んでから、出ていく所だ。 | | 灯里、歩いて、進んでいく。 | |