第3章「楽譜の意義」 続き
4.現代の楽譜
このように楽譜の意義は、音楽の記録、再現、保存、作品としての拠り所、そして、作曲の書法と共に歩んできた作曲の母体としての価値であった。そして、これらは、共通性の上に始めて成り立つコードであった。150年という西洋音楽転換の単位からすれば、1750年にはじまる古典派・ロマン派の時代は、1900年に終焉を向かえることになる。確かに、20世紀に入り、西洋音楽は、また大きな転換を向かえた。その転換は、1908年、アルノルト・シェーンベルクArnold Schonberg (1874-1951)によってなされる。この時代、機能和声法による和音の連結は、すでに、限界点まで拡張していた。リヒャルト・ヴァグナー Richard Wagner(1813-1883)は、機能和声の転調を限りなく複雑に連結させることで、クロード・ドビュッシー Claude Debussy(1862-1918)は、和声の機能的働きより、それぞれの響きを重視することで、西洋音楽が長年にわたりかかえてきた調性という概念を回避していった。しかし、調性が感受しにくいという事と、調性が無いということはまったく等しくない[注64] 。無調 atonalityという概念は、まったく今までの音の組織方法とは異なる。12音技法として、これを体系化したのが、シェーンベルクであった。機能和声では、各々の音に役割がある。主音 tonicと属音 dominantは、最も重要な音で、調性を支配する。これは、ハ長調で言えば、CとGにあたる。同様に下属音 subdominant (F)も重要である。導音 leading toneは、その名のとおり、安定した音へ短二度の上行で進行する音(H)である。このような不平等な取り扱いから、音を解放したのが、12音技法である。この理論では、音階中の12の音が全て等しい意味を持つ。したがって、中心音は存在せず、調性は生まれない。ポリフォニーがホモフォニーになる際、確かに、両者の間には、概念的に相反する部分があった。しかし、それは音楽上では、共生できるものであり、どちらかの存在が、他方の存在を否定するというものではなかった。しかし、それでも、音楽の様式に合わせ、記譜法は変化をした。拍子記号が現われ、小節線がひかれるようにもなった。しかし、このホモフォニーから12音音楽を意味するドデカフォニー dodecaphony への移行においては、記譜法は、変化をうけなかったのである。12音技法は、過去のどんな音楽ともまったく別の体系からなっているのにもかかわらずである。この記譜法の変遷の例外には、どんな理由があるのだろうか。
12音技法では、まず、作曲家は、相違する12音を全て含むセリーと呼ばれる音列をつくる。このセリーはリズムをもたない抽象的なものとして扱われ、様々な変形をうけ、最終的に1つのセリーから48種の音列が形成できるわけである[注65]。この音列は、横方向に旋律として、縦方向に和音として重ねることも出来るのだが、音価はこの体系には含まれていない。あくまでも、音程関係を基礎としている技法だからである。近代譜法は、音の高さについては、完成された記譜体系を、音価のそれ以前に手に入れていた。つまり、音楽上の、もしかしたら、最大の変化に、記譜上の変化が伴わないほど、近代譜法は信頼されていたのであり、ここまでの記譜体系を得ると、それを破壊する必要を認められなかったのかもしれない。しかし、実は、まったく問題がないまま、このような音楽様式のコペルニクス的転換が可能だったのであろうか[注66]。
そもそも、近代の楽譜が、一般的に五線譜と呼ばれるように、その最大の特徴は、五本の線で示される空間的な音の位置の把握形態にある。音部記号によって、指示される、線上にGまたはF、Cの音を置き、その三度づつ上の音が、線上にくるという方法である。音部記号がト音記号の場合、下から、E、G、B、D、Fが線上にあたることになる。この三度ごとの線という考え方は、ちょうど、音の長さが、三分割される、完全分割と同様に、三という数字の持つ、不可侵な精神的要素によっているのだが、音価における三の支配は無くなっても音高に関しては、存続してしまった。そのため、線上のE、G、B、D、Fは、三度とは言っても、実際は、G-B間の音程が、長三度であり、あとは、短三度という別の音程を持つことになる。もっと分かりやすく言えば、中央のCの音は、下線と呼ばれる線上にあるが、その一オクターブ上のCは、線上ではなく、線間に位置することになる。そして、まったく別の音であるGも、Gis(ソ#)も、Ges(ソ♭)も同じ、線上に存在することになり、同じ音であるGisとAs(ラ♭)は、別の位置にくることになる[注67] 。したがって、機能和声的に、これらを分別し、シャープ、ダブル・シャープ、フラット、ダブル・フラットという変化記号と、それを元に戻す、ナチュラルが用いられるが、半音階を多用する音楽では、この記譜法は煩雑なものとならざるを得ない。特に、12音音楽は、半音が、もっとも基本的な音の単位なので、この機能和声法に基づいた五線譜のシステムは、硯に絵の具を溶いて使うようなものだったのである。譜例3-2は、シェーンベルクのピアノ曲の一部であるが、ここでは、あらかじめフラットやシャープがついていないにも関わらず、ナチュラルが頻繁に使われている。よく見ていただくと分かるように、シャープ、フラットおよびナチュラルのついていない音符はない。つまりその思想が示すとおり、すべての音符が平等に扱われている。しかし、その平等は、記譜上での、音高の可視化に具体化されることはない。実際、半音を平等に記述できる楽譜は、オランダの技師コルネリス・ポート Cornelis Potによって発明されたクラヴァールスクリーボ Klavarskribo[注68] だけではないだろうか。クラヴァールスクリーボでは、●と○によって音階上の音と、それに対し、シャープ、フラットのついた音が区別されているが、しかし、垂直に引かれた五本の線が、ちょうど、ピアノの鍵盤のように、それぞれの音を分別している。GとGesは、別の位置にくることになる。 譜例3-3は、ベートーヴェンの《ピアノソナタ第8番“悲愴” Sonate fur Klavier No.8 "Pathetique"》(1798-1799)の近代譜法とクラヴァールスクリーボの対比例である。音の高さが、空間的比喩を利用して可視的に表現されるというならば、異なる音は、異なる空間にあるのが当然の姿である。後半の半音階による下降形に明らかなように、クラヴァールスクリーボは、見事にその要請を果たしている。しかし、このクラヴァールスクリーボは、まったく普及していないといっても良い。近代譜法がいかに、絶対的権威のように思われているかを証明することにもなるが、理論的に言っても、この方法は、画期的ではあるが、音楽様式の移行にとって核心的な解決にはならなかったばかりか、その後の急激な音楽様式の変化に対応できなくなったからである。
まず、音高の拡大であるが、従来の音高表示にとって12音技法以上に厄介な問題がある。例えば、先に例示した、鳥の声や人の会話など、元来、調性のないものでも、楽譜は、音として記述できるといった。しかし、それは、実際は、鳥の声、一つ一つを楽譜に書き表わせる最も近い音に、パラフレーズしているにすぎない。GでもGisでもないその間のような音は、音程的に無視される。この半音より狭い音程を微分音程 microtonal intervalと呼ぶのだが、記譜法を発達させ、平均律を整え、機能和声を展開させていく過程で、皮肉にも、西洋音楽は、この半音より小さい音の単位を淘汰してしまった。これらは、ペルシアやインド、日本でも、普通に使われている音程である。西洋でも、20世紀のはじめごろから、全音に対しての分割数によって三分音、四分音、六分音などがフェルッチョ・ブゾーニ Ferruccio Busoni (1866-1924) やアロイス・ハーバ Alois Haba (1893-1973) によって注目され始め、今日の音楽では、標準的な技法になっている。クラヴァールスクリボは、半音の記述に成功したかもしれない。しかし、この新しい音程に関しての記述の困難さでは、五線譜法となんら異なることはないのである。もちろん、これを五線上に表わすためには特殊な記譜法は存在する。ハーバの考案になる四分音の記譜法(譜例3-4)が有名だが他にも、種類があり、現代になるにつれ、その微分度は、こまかく、精密さを要求されるようになる。こうなると、一体、いくつの異なる高さを持つ音が、同じ譜面上の位置に記述されることになるのであろうか。
さらに、12音技法から生まれた音列によって音楽を構成するという原理は、後に、セリー音楽 musique serielleを生む。簡単に言えば、セリー(列)を音高以外にも適用するのが、12音技法との差なのだが、ここで、音高に起こった拡大が、音価・強度・音色にも起こるようになる。全ての音を平等な素材として扱うことで、機能和声は消え去ったが、音価や強度を平等に扱えば、拍節やリズムのような従来の時間概念が、崩壊への道を辿る。メシアンの《音価と強度のモード Mode de valeurs et d'intensites》(1949)の一つのセリーを応用し、ピエール・ブーレーズ Pierre Boulez ( 1925-)の《2台のピアノのためのストリュクテュール Structures pour deux pianos氈t(1952) が、それを始めて用いた音楽とされる。彼は、師の音高をパラメーターとするセリーを、音価・強度・音色に割り当てる一つの方法論を示したのである。これは後の、セリアリストにとっての聖書となった。譜例3-5が、その楽譜だが、添付された表のように、音高、音価、強度、アタックの仕方がセリー化され、従来の和声形態やリズムとは別種の音響が作られている。
さらに、電子音響技術の発達により、それらの音の要素はさらに、拡大する。例えば、音の位相である。つまり、聞こえてくる方角や音源からの距離(それらは移動することも当然ありうる)などである。舞台裏での演奏、客席バルコニーでの演奏、これらは、バンダ banda と呼ばれ、昔から存在するが、これをセリー化することは、電子音響によってなされたといえる。
音楽が、ここまでの情報を含有するようになってもなお、記譜法は、近代五線譜から、変化しないのだろうか。
5.図形楽譜と記譜法の未来
音高や音価などの音楽の要素をパラメーターと呼ぶようになると、音楽を、数値化されたパラメーターの集まりとして記述できることが分かる。音高は、周波数を縦軸にとることで、音価は秒数を横軸にとることで、微細な音程も、絶対的な音価も支配することができる。譜例3-6のカルルハインツ・シュトックハウゼン Karlheinz Stockhausen(1928-)の《習作2 Studien》(1953-54)がまさにそれである。音高は100〜17200Hzの間の81本の線で、音価はテープの走行速度、76.2cm/secをセンチメートルで指示、強度は1本が1デシベルを示す-40〜0dBにいたる線によって、その移行(アゴーギグ)とともに、あらわされている。
これらの、電子音楽の楽譜は、その性質から図形楽譜 graphic scoreと呼ばれている。現代音楽上、もっとも重要な記譜法が、図形楽譜であろう。「音楽の変容と共に、かつてネウマ譜から定量記譜法に移ったのと同じことが、今日、再び起こる必然性がある」とシュトックハウゼンが言っているのは、まさに、近代五線譜法からの、図形楽譜への移行のことに他ならない。しかし、図形楽譜という言い方は、曖昧な意味しか持っていない。辞書には、「五線譜を用いずに、記号や図形で表わされた楽譜」と書いてあり、それが、図形楽譜の全てである。つまりそれは、近代五線譜を使わずに書かれた現代のあらゆる楽譜を含むからである。電子音楽だけではなく、偶然性の音楽 chance music と呼ばれる様式にも多用される。音楽には、ジャンル、様式、形式、構造などによって、様々な名称が与えられ、我々の理解を混乱させるものだが、ここで登場する名称も、まさに複雑きわまりないものである。電子音楽というのは、電子音響機器によって音響処理を行い、磁気テープに定着させた音楽をさす一つの音楽ジャンルである。しかし、それは、演奏されない、という重要な様式を含む。したがって、聴覚的には、その電子音が特徴的だが、電子楽器[注69] を使用しているからといって電子音楽とは言わない。偶然性の音楽とは、演奏に際して、演奏家の任意な解釈や即興の価値を認める音楽を指す。一度きりの音現象を重視する方法論であり、電子音楽とは、概念的に対立する。
この二つの現代の様式は、楽譜の意義にとって重大な問題を投げかけてくる。「演奏されない」電子音楽と、「完全に作曲されない」偶然性の音楽。そして、この二つの音楽の記譜法として知られる図形楽譜である。このことは、記譜法の意義や、その未来にとって実に示唆的である。今後の議論では、紛らわしさをなくすため、その音楽とは切り離して、電子音楽の楽譜をパラメーター的楽譜、偶然性の音楽が用いる楽譜をグラフィック的楽譜と区別することにしよう。ただし、これらの図形楽譜に共通することは、読譜の上で、統一的な原則が存在しないということだ。どちらも、その楽譜を作り出した人、つまり作曲家によって、その方法が、逐一規定され、説明されるものなのである。
さて、この図形楽譜の考察は、本論の最終段にとっても重要な意味を持つ。本論のテーマである、音楽の可視化と記譜法の関連を、現代的な記譜法に即して解読することに、次ぎの二つの対象関係を見い出すことができ、それは、過去の記譜法に関しても、示唆に富んでいると思われるからである。ここで、私が提示したい関係は、「メトリック」対「パラメトリック」、そして、「音の可視化」対「行為の指示」という関係である。
科学や数学を対象にしているのではないので、メトリックやパラメトリックという言葉を、数学的正確さで、使用するわけではないのだが、ここでの、メトリックは量的なものを指し、パラメトリックは数的なものを指すという程度に考えてほしい。
ネウマは音の可視化を「メトリック」に行ったと言える。 普通、メトリックという言葉は、定量記譜法とともに使われるのだが、推定的メトリックと言えば、ネウマにも、通用するだろう。ピエール・ブーレーズが、ネウマ的なシステムは、無定形な時間や滑らかな時間の方を明らかにするのに適している[注70] というように、ネウマの線描的な記譜法は、視覚によって判断される、より推定的な象徴である。このくらいという量である。一方の定量記譜法は、純粋な意味で、つまり、測定的なメトリックであった。音程関係も、音価も、それは内的に比較される量であり、量は不平等を構築する。
19世紀に入り、作曲家と演奏家は、完全に分業される。こうなると、作曲家は、自分の音楽を、記述上に完全に定着させなければならない。この時代、楽譜に最初の「パラメトリック」が持ち込まれた。その作曲家はルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン Ludwig van Beethoven(1770-1827)である。ベートーヴェンは、テンポという概念をパラメトリックにすることで、感覚的音楽の世界にパラメーターを持ち込んだ。彼のメトロノーム記号[注71] は、詩を読む際の韻律での時間計測や、「歩くように Andante」という歩行のペースで規定された速度標語[注72] とは、まったく異なる考え方に基づく。従来の人間に内在する感覚的速度表示は、メトリックなものとして、記譜法を生みだした。従来の思考では、それは、楽譜というメディアの中において、それぞれに、メトリックなものであり、その外部構造を支配するものではなかった。量を計測するメトリックなものとして、それぞれに関わり、対置するものだったのである。速度感は、時代をもって大きく変るものである。馬車から見る風景の流れをベートーヴェンは、速いと感じただろうが、我々はそれを遅いとしか感じないだろう。しかし、ベートーヴェンが、楽譜にメトロノーム記号を添えた瞬間、このメトリックは、完全な、科学的時間に支配され、永遠、不変のものとなる。これは数値としての時間概念に他ならない。一方で、このように、メトリックな楽譜に、感覚で不可能なことを記述することは、「行為の指示」にほかならない。演奏家が、楽譜を開き、メトロノーム記号を見たら、彼はまず、メトロノームを取り扱わなければならない。これは、「音の可視化」という記号ではなく、「行為の指示」の記号化にほかならない。
作曲家という存在が現われた最初の頃は、作曲家は演奏家そのものであり、作曲家は、常に、ある楽器の名人として、自分が演奏するために、作曲を行った。さらに、オペラ座の音楽監督や宮廷の持つオーケストラの専属指揮者の地位を得て、言わば、自分の演奏家たちのために作曲は行われていた。その人数、楽器編成、そして、各奏者の技量に、あわせての作曲はあたりまえのことであった。そうであれば、作曲家の求める音楽は、ほとんどの場合、演奏に際して、自分で構成することが出来た。その方法は、記述ではなく、実際の演奏を介して伝えられる古代と同じ方法であったろう。すなわち、音は体系に基づいて可視化されたが、行為の指示を記述する必要はなかったといえる。古代の音楽は、即興、すなわち、不確定な音楽であり、出始めの楽譜も、不確定なものであった。古代と同じ音楽構成の方法がとれるのなら、不確定なものがあっても構わないのである。テンポやフレージング phrasing[注73] などが、記されていない楽譜は、古典派の時代のものでも存在する。あるいは、通奏低音の記譜法は、伴奏に不確定性を与えているとも言える。確定性はこの場合、記譜法の体系を意味する。例えば、ネウマ譜においては、音価は、確定されていない。なぜなら、音価を確定する記譜法の体系が存在しなかったからである。メトリックな定量記譜法において、音高や音価は、確定されたが、実は、不確定なものも少なくはないのである。
確定的という要素は、ベートーヴェンを皮切りに、西洋の音楽家に追及されるようになる。テンポだけでなく、微妙なフレージングや、音量の指示は爆発的に増えることになる。そして、そのような楽譜の前に、演奏家たちは、従属し、徹底的に、楽譜を至上とする演奏理念を作り出していくのである。確定的か不確定的かで、音楽を論じることが許されるのならば、ストラヴィンスキーは、確定的音楽の最大の作曲家である。彼にとって、演奏家とは、ただ指定された音を出せば良いものであって、彼の楽譜は、絶対唯一の、つまり作曲家自身の解釈によって堅牢に守られている感がある。作曲家の望む音を指定するためには、可視化できない「行為の指示」が、必要になる。そして、「行為の指示」の氾濫を止めることはできなかった。
今世紀の確定的音楽において、従来の音楽を可視化する方法はさほど重要ではなくなる。なぜなら、聴覚芸術である音を可視化するということ自体が、すでに、不確定性を含んでしまうからである。不確定性を含んだ媒介が、作曲家と演奏家という異なる人物の間でとり交されれば、そこには、必ず、変質が起こる。この変質を嫌うならば、電子音楽の楽譜のように、「パラメトリック」な楽譜を構築する必要がある。ラではなく、442ヘルツの音を、四分音符ではなく、何秒の持続というように、作曲家は、微細な音を規定でき、さらに、パラメーター的楽譜は、「行為の指示」を圧倒的に減らす。なぜなら、従来、可視化できなかったそれらの行為は数値化し、グラフ化できるからである。パラメーター的楽譜は、「行為の指示」を「音の可視化」として表わせる記譜法だった。「p--mp--mf--f」の連なりは、決して音の増加を可視化しているものではなかった。クレッシェンドの記号も、増加の図式化にすぎない。が、線であらわされたデシベルのグラフはあきらかに音の漸増を可視化している。そして、再現面でそれを可能にするのが、電子音楽である。しかし、その時、電子音楽の「演奏されない」という性質を忘れてはいけない。電子音楽の楽譜は、作業報告としてだされた研究用の楽譜としての一面があるからである。つまり、演奏に対する行為の指示はもとから必要がないとも言えるのだ[注74] 。
確定性を目指す一連の動きとは逆に、ロマン派の楽譜に代表的なテンポ・ルバート Tempo rubatoは、「盗まれたテンポ」を意味し、フレーズの伸び縮みを演奏家が自由に選択できる。これは、主に、フレデリック・ショパン Fredeic Chopin (1810-1849) の楽譜に見い出すことができ、それは、作曲家によって、演奏のテンポが不確定であることが認められた楽譜ということになる。テンポ・ルバートは、ロマンティシズムの代表として、後の時代に忌み嫌われるが、その不確定性は、現代の音楽の主流になる。偶然性の音楽と呼ばれるものは、ジョン・ケージ John Cage(1912-1992) によって採用された。その方法論はいくつかある。例えば、作曲の段階で、偶然性を使うもの、例えば、《易の音楽Music of Changes》(1951) 、演奏家の即興性によるもの、例えば、《ピアノとオーケストラのための演奏会Concert for piano and orchestra》(1958)(譜例3-7)などである。この《ピアノとオーケストラのための演奏会》では、演奏家たちは、自らの自己管理のもとで、自由に演奏部分を選択し、秩序や持続も各自の裁量に任されている。このような、演奏では、忠実なスコア・リーダーとしての演奏家では、失格ということになる。それぞれが、作曲者の領域まで、開拓して行かなければ、演奏はできない。作曲者が与えるのは、確定した音楽ではなく、演奏家の即興的創造力の起爆剤としての意味、コンセプトである。作曲家と、それに従属する演奏家ではなく、両者の垣根は取り払われる。しかし、音楽の再現性を追及した楽譜の在り方とは、一線を画する。むしろ、楽譜をおとしめるために好んで使われてきた「覚え書き」に概念は匹敵する。従来の演奏ではなく、演奏者には、選んだり、ゲームをしたり、鍵盤に投銭したりという「行為の指示」が多く与えられる。楽譜上には、従来の音楽用語ではない数多くの文字が書かれている。それは、作曲家自身による長大な楽譜の読み方から始まるのが常だ。このようなグラフィカルな楽譜は、デザインとして考えたいようなものもある[注75]。このような音楽も、そこになんらかの座標が存在するなら、ある意味「パラメトリック」な性質を持っていると言えよう。しかし、これらの多くは、推定的な楽譜と言わざるを得ない。図形が相互に、不確定だが、なんらかの量として推定できる「メトリック」な関係を持っている。むしろネウマ譜のあり方に近い線描的な楽譜である。譜例3-8にあげたクシシトフ・ペンデレツキ Krzysztof Penderecki (1933-)の《48の弦楽器のためのポリモルフィア Polymorphia》は、その最低部に秒数を記し、一見パラメトリックに見えるが、これは、比例的持続規定と呼ばれるメトリックな方法論である。秒数で区切られた時間の枠は、視覚が測る曖昧な量によって演奏家に演奏の契機の自己判定を任せるのである。武満徹 (1930-1998)の《弦楽のためのコロナ》(1962)(譜例3-9)[注76] のように、色彩の濃淡などが、「メトリック」に推定され、音楽をつくりだす。
電子音楽の場合も、偶然性の音楽の場合も、現代の新しい音楽の向かう先には、作曲家という存在の、他との関わり方を大きくゆるがそうとする傾向が見える。作曲家が自分以外の存在に対して、示す媒介である記譜法に現われるこの大きな変異がそれを物語っているのではなかろうか。図形楽譜は、百人百様の楽譜と形容される。このシステムでは、記譜法を作るものが作曲家であり、聴覚に届く具体的な音楽は、演奏家や電子音響によって「作られている」といっても過言ではない。グラフィックな楽譜による偶然性の音楽では、コンポーザーという言葉が、今や、作曲家と演奏家のどちらに置かれているのか、不明瞭にも思える。作曲家は、ノーテーターとして、自分の音楽を、記譜法を駆使して可視化しようとしてきた。しかし、従来の記譜法が、その音楽を掣肘した結果、楽譜は、パラメーターとして数値化されたり、行為の指示としてコマンド化されてきた。もはや、記譜法と長らく呼ばれてきた、大きな体系にさえ、区切りが打たれようとしているのかもしれない。しかし、ケルンのフランコが示したノーテーターという概念は、それでも、記譜したものが作曲家であることを、7世紀にも渡って西洋の標準としてきた[注77]。
記譜法は、その時代の音楽様式にまったく即した形で生まれることが、ここまでの説明で、明白になった。しかし、一つの記譜法が確定したものになったからといって、音楽の歴史がそこで止まるわけではない。従来の港に停泊することが難しい種類や大きさの船はまもなく作られることになる。そして、たった今、見てきたように、現代の作曲家たちも様々な意図と方法を持って新しい記譜法を開拓した。この図形楽譜が、現代の音楽様式の行き着いた現代の記譜法だとするならば、シュトックハウゼンのいうように、近代五線譜法もやがては、変化するだろう。
偶然性の音楽が、バロック時代の演奏概念に回帰しているという学者もいるが、図形楽譜のネウマ的な回帰について、ピエール・ブーレーズは、「1.定量的記号体系を用いていない。2.それはあまり繊細ではない、つまり大雑把な近似値を生み出すような神経構造をよりどころとする。3.それは、音楽的な時間の完全な定義を明らかにしない」[注78]という三つの理由から、それを退行とみなす。未来の記譜法は、それに先行するものを包括できるとするならば、確かに、図形的な楽譜は、従来の記号による記譜法を明らかにしないという意味で退行かもしれない。しかし、そこに、音が可視化していないとは、言えないのではないだろうか。楽譜は、厳密に言えば、音の可視化ではない。しかし、音を可視化したものは、なんと長い間、楽譜と呼ばれ続けてきたことだろう。確かに、目に見える形にして、そのものから、可視化した本体を分かるようにする、とした最初の定義に照らし合わせれば、図形楽譜は、退行かもしれない。しかし、それは、再現性に重点をおけばこそである。そして、その結果、増加したのは、純粋な「音の可視化」ではなく「行為の指示」であり、「メトリック」の「パラメトリック」への移行である。しかし、記譜法の様式から、音楽の是非を決めることもまたできないのである。記譜法があって音楽があるのではないのだから。しかし、長い記譜法の歴史を検討してきて、こうは言えるのではないだろうか。多様化する現代のメディアの中で、楽譜という一つのメディアが、音楽の制作、再現、記録、伝播、保存の全てを集約的に果たさなければならない必然性もまたないのではなかろうか。最初に示した「規範的」な楽譜と「記述的」な楽譜の二分法に照らして言えば、すでに、「規範的」な楽譜として、近代五線譜法によらない作曲と演奏はなされている。そして、それを「記述的」に記録し保存するメディアも我々は獲得しているはずである。楽譜を「覚え書き」ではないとし、記録、伝播、保存、作曲とその潜在性を飛躍的に高めた事で、西洋の音楽は、他に類を見ない展開をとげた。しかし、そういったものが、時代的に、あるいは、空間的に、たまたま、精密な再現性を要求され、保持していただけなのかもしれない。そう考えれば、図形楽譜に対するわれわれの視線もおだやかなものになるだろう。逆に、漠然と音の輪郭を推定するという状態を本来の可視化だというのなら、定量記譜法から近代五線譜法にいたる記譜法は、実は、可視的記号をもとに測定される座標ともいえる。楽譜の意義を規定する時の要素は、楽譜の本質的な態度とは関係なく、人々が楽譜に求めてきた可能性の象徴なのかもしれない。その意味では、求められるメディア性を放棄、あるいは制限したことが現代の図形楽譜の果たした貢献と言えるだろう。メディアを選択することで、音の可視化さえもが違う意味を持って来るのである。結論を焦る必要もまたないが、図形楽譜を、連綿と続いてきた音楽の可視化の歴史の、一つのオルタナティヴと考えることはできるだろう[注79]。演奏重視の偶然性の音楽だけに限らず、実際、楽譜が「作品」を構成するという時代も過去のものになりうるのである。そんな中で、音楽の可視(表現)化は、ミクスト・メディア、マルチ・メディアの名の元に、あらゆる芸術家の手で、行われている。これからは、楽譜という言葉で、音楽の可視化をどこまで言い表すことになるのであろうか。序論で退けたような、音楽の可視表現も、音の可視化として楽譜と呼びうるメディア性を認める時代も来るのだろう。ある作曲家が、これは楽譜だといって踊り出した時、私たちは、それを笑うことができるだろうか[注80]。 結論はあきらかである。記譜法の変化は、音楽の変化とまったく切り離せない関係にある。そして、音楽の様式が、より可視的な表現形態を目指す現代の音楽において、楽譜とはどのような意義を持ちうるのであろうか。現代の楽譜が過去の楽譜より優れているということはないと最初に述べた。ならば、それらは、弁別的に、評価されるべきである。いまや、西洋音楽は、確実に世界を巻き込み発展している。150年のスパンでの予測がこのまま続くのだとすれば、音楽の次の時代は、2050年から始まることになる。今後の楽譜は、現代的なメディアと切り離して考えることはできないだろう。次々登場する新しい楽譜を頑迷に拒むのなら、それは、モーツァルトの曲をアルス・ノヴァの記譜法に移譜することを主張するのと同じことになりかねない。それは、その音の可視化に、楽譜と言う名がつけられる限り変らない真理なのである。(了)
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