『ミランダ あるいは、マイ・ランド』


わたしは砂浜を海の境とし、これを永遠の限界として、
越えることができないようにした。
波が荒れ狂っても、それを侵しえず、
とどろいても、それを越えることはできない。
------『エレミヤ書』第5章22節
脚本について
 1999年8月、SPEAKER370第4回公演として書き下ろされ、360kgもの珪砂5号という白砂を敷き詰めビーチを再現した舞台で上演されました。
「1930年代のコロニアルな雰囲気。ある植民島に広がる果てしないビーチは、ショアレス・ビーチ(果てしない海岸)と呼ばれている。島には特別外交官夫妻や骨董商、憲兵や漁師、子供たちが住んでいる。しかし、そのビーチはこの島に住む人々の誰のものでもない。ビーチの所有者は誰なのか?そして、島にかけられた呪いとは?」というような内容でした。

リメイク
 初演から8年。『ミランダ あるいは、マイ・ランド』と名を変えた今回のリメイクでは、初演時にサブ・プロットとして存在していたあるエッセンスを加え、「島」、「ビーチ」に関するイメージを補足し、そしてそこでこそ起こる人々の行動に焦点を当ててリメイクされています。大幅な書き直しや、性別、年齢にいたる人物設定の変更も行われています。

ミランダとは?
タイトルのミランダ(MILANDA)は、作中に登場するある物の名前です。登場人物の名前ではありません。この「ミランダ」にはたくさんの意味が隠されています。
 まずは、シェイクスピアの『テンペスト』の登場人物。1930年代という時代の雰囲気にぴったりのサンバの女王カルメン・ミランダ(1909-1955)。この二者の綴りはMirandaですが、あえてRをLにして、別の意味も加えてあります。今回、タイトルにも加えた「マイ・ランド」(My Land)です。「私の場所」とは一体どこなのか?私とは誰なのかが、この作品の要にもなっています。

エピグラフの意味は?
冒頭の「わたしは砂浜を海の境とし、これを永遠の限界として、越えることができないようにした。波が荒れ狂っても、それを侵しえず、とどろいても、それを越えることはできない。 」という『エレミヤ書』の一節がこの作品のエプグラフになっています。舞台となる砂浜は「永遠の限界」であり「越えることができない」のですが、それは何故なのか、作品の後半でその答えがあきらかになります。

舞台はどこ?
 舞台はカリブ海あたりにスーパーインポーズされた架空の島です。当初の設定上では、1502年にコロンブスが発見しポルトガル人が一部入植します。18世紀に英仏の植民が始まり1783年イギリス領になります(これはパリ条約という事になりますね)。しかし諸島の端の離れ小島で資源に乏しく、海路の要衝でもなく、砂糖プランテーションも波に乗らず、すぐにさびれてしまいます。物好きな人が入植したり別荘を立てたり保養地以外の機能は果たさなかったようですね。島の南側に、一応、ビーチやヨットハーバーがあり、ここを訪れたイギリスの作家が「ショアレス・ビーチ(shoreless beach)」と名付けました。ショアは、海岸や岸を表わしますが、ショアレスには果てしないという意味もあるので、奇妙なようで、なかなか修辞的な形容です。これらの設定には、同じカリブ海のセントクリストファーネビスやセントルシアを参考にしました。
 この島の名前は登場しませんし、特に名付ける気はありません。一度「ミルトン島」という名前を考えた事があります。ジョン・ミルトン(1608-1674)は、イギリスの詩人で彼の代表作『失楽園』が、この作品の根底に響いていると思われたからなのですが、そのアイディアは結局、破棄しました。

時代はいつ?
 この説明は、完全に、物語の核心に迫り、ネタバレになってしまいます。公演終了後に書きますね。また、この作品では、時間をまやかしにするため、錯時法(ナラトジー=物語論で物語内容の時間順序とそれを提示するテクスト、この場合、演劇の時間順序のズレ)が使われています。

登場人物の名前
エドワード・フィッシャー:島に駐在する本国の特別外交官。
クレア・フィッシャー:フィッシャーの妻。
エッブ・ラトゥーン:島の漁師。
エバン・ラトゥーン:エッブの甥。
クリス・ウィルバーフォース:鳥類学者を目指す青年。エッブの親友。
イアン・ティーコ:島の骨董商。
ナイア・ティーコ:イアンの養女。
バリー・ヘリング:本国の軍科学者。
ケレス:ホーエル:ヘリングの副官。
アリス・マーシャル:島に漂着した商人。
の10名ですが、ビーチが舞台の作品なので、初演時にはキャラクターの名前は魚の名前などをもじってつけました。洋風サザエさんのような物です(笑)今回は、キャラクターの性別や年齢の変更もあったため、ついでに荒唐無稽な名前は変更しました。その際、シェイクスピアの『テンペスト』やアガサ・クリスティの『白昼の悪夢』などから、名前の素材を取りました。いずれも島のお話です。それでも、ヘリングやホーエルと言った名前にまだ魚が残っています。
アリスの名前はもちろん『不思議の国のアリス』。不思議な事が起こる島に迷い込んだ今作品のアリスは、無事、元の世界に戻れるのでしょうか。そしてミランダとアリスの関係は?

イリジアム(elysium)
 ヘリングが何気なくつぶやくこの言葉は、ギリシア神話の エリュシオン(Elysian Fields)の事で、祝福された人々が死後に住む楽土。転じて理想郷、至上の幸福という意味があります。平和で楽園のような退屈な島を皮肉ってヘリングは言いますが、この言葉には、思わぬ真実が隠されています。

引用
 僕の作品は、先行するテキストからの引用が多いわけですが。今回も、シェイクスピアの『ハムレット』や『テンペスト』、ジョン・ダンの詩、そして、ヘミングウェイ『海流の中の島々』、マン『魔の山』、エーコ『前日島』、クリスティ『白昼の悪夢』と、多くのテクストの引用や影響が見受けられます。(そのうちいくつかは、このページにも引用してみました)衒学的ではありますが、人が孤独ではないように、テクストも孤独ではないという間テクスト性みたいな事を盛り込んでみたかったというのもあります。
 また、自作品からの引用もあります。カジュアリーナの木は前述のサマセット・モームの『カジュアリーナ・トリー』に登場する不思議な木(日本でいうモクマオウ)。実はこの木は作者の前作『ペストと交霊術』にも登場しています。またアリスの妹のサラという名前も、『ボーイング370』や『ペストと交霊術』などの他の作品で、妹の役名として使われています。

私たちが死を悲しむ のは、 死者をこの世でふたたび見ることができない悲しみというよりも、
それをねがってはならないという悲しみであろう。
----トーマス・マン『魔の山』


この島は、苦しみを味わうことが許されない宇宙で ただ一つの場所で、
ここでは、無気力な希望と底なしの倦怠を 見分けることはできないのです。
----ウンベル ト・エーコ『前日島』


人間は島ではない
 冒頭に長く上述のジョン・ダンの詩が引用されています。島の人々は、ある出来事を乗り越えなければその事に気がつけないのですが・・・。

誰も、それ自体で完全な島であるような人はいない。 誰もが、大陸の一部であり、本土の一部分なのだ。
だから、誰の死も私を衰えさせる。 なぜなら、私は人類(という大陸)に含まれているからだ。
だから、人をやって尋ねてはいけない。 あの弔いの鐘は誰のために鳴っているのかと。
それは、あなたのために鳴っているのだから。
---ジョン・ダン『重病の床の祈祷』


最後の真実
 エッブのつぶやく最後の言葉「太陽のような光、白い雪、爆発。爆発。無限の、爆発。」は、何を意味しているのでしょうか。ミランダの本当の正体は、人類にかけられた恐ろしい呪いなのかもしれません。

参考文献
アラン・コルバン『浜辺の誕生』
伊藤秀三『島の植物誌 進化と生態の謎』
ウィリアム・シェイクスピア『テンペスト』
ジョン・ダン『重病の床の祈祷』
アーネスト・ヘミングウェイ『海流の中の島々』
トーマス・マン『魔の山』
ウンベル ト・エーコ『前日島』
アガサ・クリスティ『白昼の悪夢』
川井竜介『水爆実験との遭遇』
美術出版社編『アトムの時代』