Chapter2-5 脱出の味は絹の影
tには必ず横棒を引き
iには点を打つのを忘れないようにしないと、
間違いのもとになるものだ。
----アガサ・クリスティ『複数の時計』

 グッド・モーニン・サルモネラ。
 うかつなことに、私は、「おはよう」をいってから、目を覚ましてしまった。目を覚ますことで、私の記憶が薄らいでいく。しかし、そのことが逆に、私が現実世界に連れ戻されたのだということを明確にしていた。目の前に、女がいる。誰だ。エイチッチ。
「私がわかりますか?」
 エイチッチはやはり女だったのか?いや、しかし・・・
「私が誰だかわかりますか?」
 その声、エイチッチだ。私はゆっくり体を起こした。
「あなたが誰なのかは分かる。だが、なぜ、あなたがそんなものをきているのかは分からない」
 エイチッチは軍人のはずだ。彼女は自分が白衣を着ていることにそのとき始めてきがついたというように、その裾をいじった。
「変ですか?」
「いや、何を着てもお似合いに・・・」
「どうか、それ以上おっしゃらないでください。父のものなんですの。大きすぎるわ。似合うはずなんかない」
 私は、黙るしかなかった。しばらく、沈黙が私を責めていたが、彼女にとっては、それは救いだった。彼女は、信じ難いほど、その沈黙の中に、気持ちよさそうに揺蕩(たゆた)っていた。やがて、
「これ、もういいんです」

 彼女はそういって白衣を脱いだ。

 次の瞬間エイチッチの姿はそこから完全に消えていた。その光景に目を奪われながらも、私は、自分の回りの風景をみて、自分がプリズナーだということに気がついた。壁−壁−檻−壁。

「お目覚めかな」
 その声は、私の美的音源ファイルには登録されえない汚い声だった。
「お目覚めかな、と言ったんですよ。英雄殿」
 何か、冷たい気体を吐き出しながらのように聞こえるその声は、私の入っている檻を囲むように立てられた薄い紙のようなもので出来た板の向こうから聞こえてきた。その板のうちの一枚が、左にスライドすると、男の影がやっとみえるようになった。
「私はワイイ。あなたがたの担当者になりました。以後、お見知りおきを。これは、遠いニッポンコクという国の調度品で、向こうでは家の壁は全てこれなんです。私は見たくないものを見ないための仕切りとして、使っていますが、確か、あちらの言葉で、マクラといいましたっけ」
「ワイイ?担当者?エイチッチはどうした?」
「ふふっ。英雄殿は、ニッポンコクには興味がなさそうだ」
 それはワイイの笑いの擬音語ではなかった。たしかにワイイは「ふふっ」という言葉を発してのだ。
「エイチッチは貴方の中にいます。あなたの想像の産物として追放しました。私が、ついさっき」
 想像の産物と言ったのか?こいつは想像の産物といったのか?エイチッチは私の想像の産物?
「あなたが、この国に入国してから、私たちは、あなたをいろいろとチェックさせてもらいました。まあ、それを話してもいいのですが、専門的すぎて、あなたのような方には理解いただけないと思うので、いたしませんが、とにかく、あなたはある種の夢を見ていたのです。あなたが英雄を名乗ってこの国に入国するとすぐに・・・(中略)・・・それはこの国が求めている法則なのです。例えば、キプロスでは、英雄に関する極めて悪質な犯罪と伝染病が、乳幼児のシナプスを・・・(中略)・・・では、いったい、あなたがたのような英雄が存在するのでしょうか。私は考えた。そして、実験によって答えを得たのです。いいですか、じぶんの秘密を言い当てられて驚かないでくださいね。それはすべて、私が天才的すぎるのがいけないのですから。そう、つまり、あなたは、あなたは英雄ではない、単なるペテン師だ」
「ペテン師だと?エイチッチが俺の想像の産物だと?」
「そうです。ペテン師の、産物だ」
「ノクターンをかけてくれ。ショパンのノクターンを1番から全部」
「何を、血迷ったんですか?」
 ワイイは、神を超えたとでも言いたげな優越的な顔をした。それは、困った人ですねぇ、という顔だった。とにかく、ノクターンが流れ出した。
「ワイイとかいったな。おまえは、さきほどの自分の台詞が中略されていたのに気付いたか?」
「中略?」
「ま、気付いたかどうかはどうでもいい。おまえはもっと美しい質問に答えるべきだ。こう、問おう。おまえは、なぜ、自分の台詞が中略されたかわかるか?」
「中略された?何を馬鹿な」
「馬鹿、そんな言葉は、自分の台詞を読み返してからいうんだな」
 ワイイは薄い笑いを浮かべると、自分の台詞に目をやった。しかし、そのすばやさは彼の心の焦りしか表現できなかった。
「なに?ばかな。いったいだれが」
「俺だよ」
 私は、ゆっくりと立ち上がると檻に手を当てた。
「この檻は、きっと柔らかいんだろうなぁ」
 次の瞬間、私の手のなかで、檻はゆっくり溶けるようにその輪郭を失っていった。私が、一歩檻からでると、ワイイは後退さった。
「なるほど、おまえは確かに天才かもしれない。だが、おまえの話しは、無駄に長すぎる。芝居も下手だ。俺は思ったね。おまえの話しを聞きながら、あーあ、長いなぁってね」
「何?」
 ワイイは、もはやとりすました表情の一つも作れなくなっていた。
「おまえの言うとおり、俺はペテン師だ。しかし、一つだけ訂正しておきたい。俺は単なるペテン師じゃあない。偉大なペテン師だ。ペテン師も偉大がつくと、わがままになる。自分の思ったことが、実現しないと嫌になる。長い話しは聞きたくないし、堅い檻に閉じ込められているのも嫌だ」
「どういう意味だ!」
「嘘からでた真って言葉がキプロスの祭壇の礎石に刻み付けてある。俺が200年前に掘ったものだ。小学校で習わなかったかな。ワイイくん」
「それじゃ?」
「おまえは、想像の産物っていったね。想像したんだよ。話しが短くなること、檻が柔らかくなること」
「想像の産物!」
「そう、想像は実在しないが、産物には触ることが出来る。だから、エイチッチもいる」
 ぐにゃぐにゃになった檻が徐々に人体の形に集約され、裸婦像の用に光輝くと、エイチッチの美しい裸体にかわった。ああ、オランピアよ。ウルビノのヴィーナス1よ。
「しかも、裸のな。」
 私が笑うとワイイは悲鳴を上げた。
「4番だ。聴けよ。このAndante cantabile2 の旋律は美しいだろ?ところがさ、これが、Con fuoco3 になると・・・そうだ、あいつはどこにいったかなぁ?カワホリー、カワホリー」
 ワイイは、あとずさりながら、あたりを警戒した。
「そうじゃないんだよ。ワイイくん。そうじゃない。俺はこう言ったんだよ。・・・・・・・ってね」
「なんだ、なんていったんだ。カワホリーはいる、までは聞こえた。その後なんていったんだ?」
 ワイイは絶叫した。ワイイの背中に亀裂が入り、黒々としたいやらしい羽が肉を裂きとびだした。やがて、ワイイの肉体はくずれながら、蝙蝠の化け物に変貌した。
「カワホリーはいる、おまえの中に。俺は、想像を物として産んだ。Con fuoco、炎のように」
 もがき苦しむワイイの体、いや、カワホリーの体から白煙がたった。次の瞬間、ごぉっ、という音と共に、彼等の体は炎に飲み込まれた。ごぉっ、美的音源ファイルに登録したい。

「そして、あなたは、いる。エイチッチ少尉。信じなさい。汝は何も失わない!」
 私は、エイチッチに手を差し伸べながら言った。
「英雄殿」
 熱き抱擁。キスはしないのが、ハードボイルド。
 そして、私のハードボイルドは孤独ではない。
「何ごとですか?」
 デッドが、スクリームが、ネイルが、レティが英雄たちが、勢ぞろいした。私はデッドを軽くつかまえると、胸元に引き寄せその髪にキスをした。エイチッチは、じっとその様子をみている。
「英雄たち、集まれ。脱出する。瞬時にして復活せん!!」
 おーっ、という雄叫びが上がった。船出は急いだほうがいい。南からの風が、無花果の血なまぐさい薫りを運んでくる。これほど血なまぐさい果実を産出する国が、この血なまぐささを保てる3日の距離にいるわけだ4 。その国を目指しても良いが・・・こんな日の夜は、海が荒れる。英雄には良い揺かごになるだろうが、女性には、少し・・・。

1 「オランピア」は、マネ(1832- 1883)の油彩画。「ウルビノのヴイーナス」はティツィアーノ(?- 1576)の作品。マネは、「オランピア」において「ウルビノのヴイーナス」のポーズを借用している。

2 「歩くような速さで、歌うように」の意。

3 「熱烈に、火のように」の意。

4ロ−マから見て地中海の南の国カルタゴを撲滅するべく、大カトー(前234- 前149)が、元老院で行った演説は、見事な無花果の実を片手に「これほど豊潤な果実を産出する敵が、この新鮮さを保てる3日の距離にいる」といったという。


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