SPEAKER370 volume.08『F.L.O.O.D.』(フラッド)


登場人物について
  この作品は、主人公が覚醒する国立覚醒医療院での未来(2118年)から、主人公が生きた時代=現代(2003年)を回想するという構成になっており、かつ主人公が、両親の想い出としてさらに過去(1984年)を回想するので3つの時代に渡っていろいろな人物が登場します。珍しく日本を舞台に書いたので登場人物の名前は悩みましたが、基本的に日本の(現代)美術家の名前を借用しています。
佐伯灯里(さえきあかり)
【未来】【現代】主人公。22才、女性。太陽光線を見ると涙が出るという特殊な病気にかかっている。100年以上の冷凍睡眠の末、44号患者として覚醒。この原因不明の流涙症を治療するため、睡眠医療を受けた2003年頃の事を回想していく。
老人
【未来】96才、男性。冒頭のホスピスで灯里と対峙する車椅子の老人。すでにアルツハイマーが彼の脳を蝕んでおり、会話や自律的な行動は難しい。《国立覚醒医療院》退院後、灯里が探し求めた彼の正体は・・・。
介添人
【未来】22才、女性。車椅子の老人が住んでいる老人用施療院で働いている女性。創業者の孫にあたる。彼女から創業者の名を聞いた時、灯里は涙を流す。
小野里(おのさと)
【未来】40代、男性。《国立覚醒医療院》に勤める眼科病棟、主任医師。医大を出て大学病院勤務というキャリアではなく、おそらく家族経営の病院で医者をやっていた経験がある。父親も医者で、医療過誤かなにかで、自殺などしているかもしれない。医療に対する情熱は、そのためか、失っている、あるいは、失ったと思い込もうとしている。
彦坂(ひこさか)
【未来】20代後半、男性。《国立覚醒医療院》に勤める医師。小野里の助手のような存在。おそらく医大(大学院)を出て数年しかたっていないだろう。どちらかというと研究に長けており臨床の経験はあまりなさそうである。飄々としていて、頭の中は単純なようである。しかしそんな態度にも何らかの深慮があるのかもしれないと思わせるような、不可思議な所がある。
元永(もとなが)
【未来】30代後半、女性。《国立覚醒医療院》に派遣されている女性精神科医。小野里の昔の恋人か元婚約者かも知れない。専門は、覚醒患者のカウンセリング。《国立覚醒医療院》にも覚醒カウンセラーとして派遣されている。覚醒医療に関するあらゆる知識と、的確な批判眼の持ち主。
看護婦
【未来】中年、女性。《国立覚醒医療院》の看護婦。灯里の担当。
鳴美(なるみ)
【現代】20代、女性。灯里の勤めるバー《ムーニン》の店員で、灯里の友人。調子が良く、口さがないが、物事の本質はしっかりとらえていそう。
マスター
【現代】3、40代、男性。灯里の勤めるバー《ムーニン》の店長。やや弱気で人当たりの良い性格。
森村(もりむら)と田淵(たぶち)
【現代】3、40代、男性。灯里の勤めるバー《ムーニン》の常連客。
榎倉一昭(えのくらかずあき)
【現代】25才、男性。灯里の勤めるバー《ムーニン》の店員で、灯里の元恋人。灯里と数年付き合うが、彼女の眼の病気が原因となり別れた。その後も、同僚、友人として灯里との接触はある。
トウ馬(とうま)
【現代】22才、男性。灯里の22才の誕生日の席に現れ、灯里が惹かれる男。経歴や現在の生活等に不明な点が多い。少年のように無邪気であったかと思うと、大人のように博識であったりする不思議な魅力の持ち主。実は灯里の・・・。
JB(ジェイビー)
【現代】トウ馬のマンションで、トウ馬が会話をする機械(?)。
香川(かがわ)
【現代】30代、女性精神分析医。灯里に催眠療法を試みる臨床心理士。
ライター
【現代】灯里の講演を聞き、質問をするサイエンスライターのような人物。
戸谷(とや)
【現代】中年、男性。枇杷坂の助手。枇杷坂に忠実な研究者。実はバー《ムーニン》にもいた。
建畠(たてはた)
【現代】中年、男性。枇杷坂の助手。枇杷坂の研究に限界とある種の危険を感じている。実はバー《ムーニン》にもいた。
佐伯耀子(さえきようこ)
【過去】中年、女性。灯里の母、教育心理学教授。夫螢介と枇杷坂とは、大学の研究所が同じらしい。
佐伯螢介(さえきけいすけ)
【過去】中年、男性。灯里の父、脳外科医師。
枇杷坂順二(びわさかじゅんじ)
【現代】【過去】中年、男性。神経生理学者。脳手術で植物状態になった娘がいる。佐伯夫妻とは、大学の研究所が同じらしい。F.L.O.O.D.計画の生みの親。1986年研究中に事故死しているが・・・。

*名字を拝借した美術家(敬称略):佐伯祐三(1898-1928)、オノサト・トシノブ(1912-1986)、彦坂尚嘉(1946-)、元永定正(1922-)、森村泰昌、田淵安一(1921-)、榎倉康二(1942-1995)、戸谷成雄(1947-)、建畠覚造(1919-)。

エピグラフについて
 今回の脚本は6つの章に分かれており、脚本全体に1つと、それぞれの章に一つづつのエピグラフがついています。作者は、このエピグラフを非常に大切にしていて、いろいろ作品の中から、適当な物を取捨選択しました。その中には、ミュージカルCATの有名な「メモリー」などもあったくらいです。みなさんが、エピグラフという、実際の物語とも、役者の発話行為とも関係ない部分を、どのように感じて下さるか、分かりませんが、各エピグラフの意味を軽く、説明したいと思います。
全体
四月は最も残酷な季節だ。
リラの花を死んだ土から生み出し
記憶に欲望をかきまぜ
春の雨で鈍重な草根をふるい起こすのだ。
冬は人を温かくかくまってくれた。
地面を雪で忘却の中に被い
ひからびた球根で短い命を養い。
シュタルンベルガー・ゼー湖の向こうから
夏が夕立ちを連れて急に襲って来た。
僕たちは回廊で雨宿りをして
日が出てから公園に行ってコーヒーを
飲んで一時間程話した。
-----T.S.エリオット「荒地」

 まず、全体のエピグラフは、T.S.エリオットの最も有名な詩『荒地』の「埋葬」の冒頭部分です。灯里とトウ馬の母の愛誦する詩で、幼い頃子供達に聞かせていた詩として作中に登場します。この詩を選んだ最大の理由は、まずなにより、記憶と欲望というキーワードが入っている事です。そして忘却を是とし思い出す事を残酷とする逆説的なレトリックが、この作品にとってなかなか刺激的だったからです。フランケンシュタイン博士の欲望や鉄腕アトムを生んだ欲求が「生き返らせる事」であり、その事が悲劇を招く事は言うまでもないわけです。記憶を「奮い起こ」し、甦らせる事への警鐘を伴って響いてきます。また、後半の印象から、作品で重要な2つの場所(国立覚醒医療院と老人用の施設)を湖畔に設定しました。
ACT1
眠れるかたよ夢から覚めて下さい
星の光と露のしずくがあなたを待ってますよ
真昼のさわがしさも月光にあやされてもう終わり
さあ、私の調べを聴いて下さい
いろいろな憂い事も後もなく消えました
眠れるかたよどうか夢から覚めて下さい
-----「夢路より」アメリカの民謡
「Beautiful Dreamer, wake onto me. 〜」という歌を知らない人はいないと思います。日本では「夢路より」として知られている歌ですが、これは、冷凍睡眠に入っている灯里への歌と言えるでしょう。今回は、英語の歌詞を自分なりに訳してみました。「真昼のさわがしさも月光にあやされてもう終わり」とあるように、眠っている灯里に過去のごたごたは終わったと言っている事と、さらに昼の光は、もう消えたので出ておいでと、灯里の眼病についても示唆しています。メロディーがとても素敵な歌なので、エピグラフが音楽つきなら良かったのにと思います。
ACT2
自分の人生のさまざまな想い出の明るい層の下に、
別のものがあるという異様な感じに襲われたことがあった。
それらは計り知れぬもので、普段は意識されないのだが、
時として記憶の表面に黒くて丸い穴をあけにやってくる
-----イゴール&グリチカ・ボグダノフ『盗まれた記憶』
 どきっとする言葉です。まるで、別の自分がいるかのように。これは、『盗まれた記憶』(原題は「二重の記憶」なので、その方が良いと思うが)という小説の一節です。最高におもしろい、というわけではないのですが、なかなか驚きの結末でびっくりします!みなさんの人生の記憶は何にも脅かされていないでしょうか??恐いですね。
ACT3
私たち人間と、人間の喜びや悲しみ、記憶や野望、
自分自身と考えているものや自由意志------これらは実際には、
ニューロンの巨大な集合体の活動に過ぎない。
-----フランシス・クリック(1962年ノーベル生理学医学賞受賞)
 フランシス・クリックは1916年生まれのイギリスの分子生物学者で、ジェームス・ワトソンとの共同研究で、有名なDNAの二重螺旋モデルを提出し、ノーベル賞を授与してています。現在多くの学者、それも、神経生理学者、神経解剖学者、認知科学者、哲学者、心理学者、物理学者、数学者、脳医学者、ロボット工学者、といった先端化学者たちが、注目し取り組んでいるのは、意識はどこにあるのか?という疑問のようで、上記のクリックの言葉は、我々の感情や記憶、意識などは、脳内の電位的活動に過ぎないという事がほぼあきらかになっている現在の状況をうまく表現していて刺激的です。みなさんは、自分の感情や意志等がすべて脳内の電位的活動にすぎないと思われますか?こういう立場を唯脳主義とか還元主義と言いますが、今回、いろいろな文献を読んでいて、僕は、ああ!そうなのだなぁ、と思いました。過激な理論と思われそうですが、はっきり言って現時点では、もう当たり前の理論なんですね。
ACT4
プチット・マドレーヌは、それを眺めただけで
味わってみなかったあいだは、
何も私に思い出させなかった。
-----マルセル・プルースト『失われた時を求めて』
 ここで、現代文学の大代表作『失われた時を求めて』の一節です。一杯の紅茶に浸して口にした一切れのマドレーヌが、話者の「私」に喚起する少年時代の回想からこの小説は始まり、全7編に昇る巨大な大河小説を形成します。ある一つの味が、かくも膨大な情報を思い出させる事ができる、その証明の最たる物が、この小説だと言えるでしょう。「記憶」と言えば必ず引き合いに出される程、有名な引用です。
ACT5
荘子はある時、胡蝶になって、
ひらひらと花の間を飛び回る夢を見た。
その時は自分が荘子であることには気が付かなかった。
しかし、なんと目覚めてみれば、自分は荘子ではないか。
いったい自分は夢の中で胡蝶になったのか、それとも、自分は胡蝶で、
胡蝶が夢の中で荘子となったのだろうか。
-----『荘子』「斉物論」胡蝶之夢
 荘子の斉物論の最も有名な、胡蝶の夢のエピソードです。「物化」という思想を説いている部分で、万物の変化は、荘子が夢で胡蝶になるように因果関係はなく、絶対的ではないという思想というか境地を説いています。この思想は別として、この不思議(ワンダー)さに感嘆し、この不思議さを受け入れるのは、一種、清々しい物があります。センス・オブ・ワンダーです。有り体に言えば、蝶か荘子かはっきりさせる事は必要なのでしょうか?あるいは、はっきりさせる事が可能なのでしょうか?
ACT6
時間は、体験された感情についての記憶の、
すばらしい濾過器、偉大な浄化装置である。
のみならず、それは、素晴らしい芸術家である。
時間は単に記憶を浄化するばかりでなく、
詩化することもできるのだ。
-----スタニスラフスキー『俳優の自分に対する仕事』
 詩化するという言葉の魅力に強く惹かれました。確かに時間は記憶を浄化します。これは、灯里の人生にとって言える事です(むろん、小野里の人生にとってもそうでしょう)。そして、浄化装置というだけじゃなく、芸術家だと言います。記憶を詩に変える(還る、と言った方が良いかな)というのは、灯里の物語を、語って聞かせるという物語論的構成にも影響しますし、さらに、その語って聞かせる物語を、語る作者の行為を語っている言葉にも思えます。今回の「物語」りのテーマ的な部分を押さえながら、「物語」ることの魅力にも肉迫する素晴らしい言葉で、さらに、スタニスラフスキーの演技論である事もあり、重層的に響きます。