SPEAKER370 volume.08『F.L.O.O.D.』(フラッド)


 
脚本について
未来。今から115年程。福島県檜原湖畔にある国立覚醒医療院、眼科病棟で、<眠れる難民(sleeping refugees)>と呼ばれる入眠患者の一人が覚醒治療を受ける。彼女は、原因不明の流涙症で、太陽光線を見ると涙が溢れ出すという。これを病気ではないと言い張る彼女と、主任眼科医の心の触れ合いを(100年以上の時を遡りながら)描く「記憶の洪水」の物語。

 このシノプシスは、宣伝用に作られた物で、わざと嘘が書いてあります。それは「心の触れ合い・・・」のくだりです。患者と医者の心の触れ合いの物語をお見せしますと言っておいて、本当に提示されるのは、残酷なSFなのです。ここでは、脚本の後書きのような形でキャストに配付した文章をいくつか紹介します。ちなみにその配布物のタイトルは「Brain Storm」でした。
作品の成立過程
 この作品は、1999年頃から小説として書き始め、全く筆が進んでいなかった作品を戯曲化した物です。最初は『FLOOD FROM EYES』というタイトルで、太陽を見ると原因が分からないまま涙が出てしまうという女主人公を巡り、二人の男(昔の恋人と、主人公の双児の弟)が繰り広げるサスペンスで、割とセクシャルな描写の多い小説でした。記憶に関する実験は、今回の舞台版よりもう一歩進んで、ロドプシン投与や超視覚といったような用語を使い、聞こえない音(超音波など)や見えない光(赤外線など)を利用した記憶再生システムの実験となっています。ただ実験より恋愛に重きを置いたお話になる予定でした。
 少ししてから、未来からの視点で物語を語る構造にしようと思い、国立覚醒医療院とそこの医師を登場させ、SF的な設定と、語りのスタイルを強調しました。タイトルも、『FLOOD FROM EYES』から『F.L.O.O.D.』に変更しています。『ゴルトベルク変奏曲』(睡眠不足の伯爵のために書かれたというバッハの名曲) の各変奏に合わせて物語が進んでいくと言う形式で、SF的にもリアル(ハードSFと言うのでしょうか?)でありつつ、詩的で静謐な作品を目指すことにしました。しかし、記憶のメカニズムや脳科学に関する作者の無知によって中断してしまい、今回舞台版となってやっと復活したわけです。プロットと大部分の筋書きは変わっていませんが、1時間半からせいぜい2時間の演劇用なので、相当の改編、省略をしました。一応、これにより、小説より早く、結末を迎えることになりましたが、実は、小説で予定していた結末とは別バージョンになっています。
フラッド計画とフランケンシュタイン
 この『F.L.O.O.D.』という作品が取り上げているのは「記憶」です。主人公が太陽を見ると涙を流す理由は、彼女には思い出すことの出来ない記憶に原因があります。枇杷坂の実験としては、彼女は後遺症が残ってしまったということになりますので、失敗例になるのかもしれません(小説では、あきらかに失敗作であることが指摘されています)。しかし、この涙は灯里にとっては非常に重要な記憶の証になっているのです。
 アクターズ・スタジオの演技理論の事をなにかの本で読んでいたおり、ある演技論に接しました。この理論を拡大解釈(誇大解釈でしょう)した所に、枇杷坂の研究の淵源があります。私たちはなんらかの刺激でなんらかの情報を想起します。視覚や聴覚、味覚、嗅覚、触覚などからの刺激は容易になんらかの景色や想い出を思い出させてくれます(パターンコンプリーション)。だったら、それを支配できないだろうか?この刺激と想起のメカニズムを自由にコントロールできないだろうか?これがF.L.O.O.D.計画の基本的な発想です。ある種の光や音がある種の記憶を呼び覚ますように訓練すれば、幼児期に大量の情報を与えておく教育ができるはずです。ある種の分野に関しては、胎教でも可能かも知れません(一度も聞いた事のない曲を指揮できた指揮者の話は有名です)。そして、なぜ枇杷坂がそうまでして人間の能力を高めようとするのか。膨大な情報を持つことが目的なら現在の社会のようにコンピューターや機械を使ったり、頭の良いロボットを使えば良いじゃないかと思う訳です。しかし枇杷坂の懸念はむしろそこにあります。人間がこのように脆弱だから機械に頼るのだと。そして、いつか機械が人間より知識を得て、人を超越してしまう日が来るのではないかと、恐れその事が許せなかったわけです。
 コンピューターによる人間支配なんて荒唐無稽なSFだ、と思うかも知れませんが、世界的な宇宙物理学者のスティーブン・ホーキングは「コンピューターが知能を発達させ、世界を支配する危険性は現実の物だ」と警告しています。コンピューターの人工知能に人類が対抗するための手段をホーキング博士は遺伝子工学だと考えており、生態系が電子体系に対する優位を保ち続けるには、「脳とコンピューターを直結できる技術を一刻も早く開発すべきだ」と主張しています(ウィリアム・ギブソンの『記憶屋ジョニイ』を思い出させます) 。枇杷坂は、このような人間の半機械化的な手段を取らなくても、すでに人間の脳はコンピューターの何億倍もの容量を持っているのだから、その再生システムさえ確立できれば、大丈夫だと考えています。
 こうして、実験(枇杷坂は決して実験という言葉を使わず、観察と称した)用に、数組の一卵生双生児を含む子供達が集められ、記憶の刷り込みと再生のテストを行わされたわけで、戯曲では、灯里やトウ馬、一昭が被験者となっているわけです。結局、枇杷坂は科学者でありながら、人間=神聖、機械=悪、という妄執に囚われ、人間性をこの悪から保護するためにF.L.O.O.D.計画という宗教をつくり、彼の助手たちは狂信的にその正当性を疑わなかったわけです。枇杷坂たちには悪意がまったくないのですから、これは宗教なのです。彼らの理論のアンビバレンツは、人間の体に細工をしない方法(非侵襲的)が、人間の体をスペア化するように切り刻む方法よりも正しいと思っている点です。その結果、体ではなく子供達の心に傷をつけていくのです。機械から人間性を守るためにと、人間の心を最大限に重視しておきながら、です。どちらが、より残酷なことなのか判断は難しいと思いますが、枇杷坂はその判断からも目を背けているのです。戯曲でも、まず灯里の母親が「非侵襲的方法がかならずしも・・・」と警告し、最後に灯里によって「確かに、肉体は無傷かもしれない。でも、一番大切な物を傷つけたじゃない」と断罪される事になります。人間を生かして、人間性を破壊しているというわけです。ただ、この辺りの位置付けは、小説と戯曲では異なります。小説では、枇杷坂は投薬やレセプター埋め込みなど積極的に体内改造にも手を出していますから、研究の動機は、小説とは異なります。
 実験物は、SFの一つのテーマ素材として古くから流布していますし、現在でも、もうお馴染みのテーマです。今回の素材としては、そんな実験物の中でも最古のあるSFのモチーフを見受ける事が出来ます。枇杷坂がトウ馬によって滅ぼされる(死んだかどうかは不明だが)点は、まさに実験ものの元祖『フランケンシュタイン』のパラフレーズと考えられます。結局の所、記憶の再生という、素晴らしい創作物を作ったのですが、結局、それは彼らにはコントロールしきれなくなり、怪物と化してしまうのです。重要な点は、トウ馬が枇杷坂に復讐するのではなく、再生された「記憶」そのものが枇杷坂を滅ぼす点です。トウ馬が怪物なのではなく「記憶」が怪物的であるという点がポイントです。
 枇杷坂という人物について考える時、科学と芸術が同じである事を考えずにはいられません。今回参考に、解剖学者の養老孟司氏の講演会に行きましたが、そこでも科学と芸術の相同性が語られていました(ICCという美術館で行われた講演会だったので芸術の話は当然なのですが)。科学畑でない僕が、読みたくもない参考書を読んでまで、科学者を出したがるのは、彼らが常に、芸術家だからだと思います。彼らの実験は、絵書きが絵を書く作業と変わらず、その成功例を見る事は完成した絵を見つめる画家のまなざしと同じなのです。だから、時として科学者はやり過ぎてしまうし、それは稀な事ではないと思います。芸術はやりすぎてしまう物ですから。(ただし誤解のないように言っておきますが、芥川が芸術と道徳の相克を描いたように、科学も道徳と相克するならば、そこにはなんらかのブレーキが必要ですし、そういう点については、僕の大好きなマイケル・フレインの『コペンハーゲン』のような作品がよく語っていると思います。)ようは、科学の世界は不思議な世界であり、その世界を扱っている科学者は、科学的というイメージより、非常にセンシティブで創発的なイマジネーションの人、芸術家肌の愛すべき人間に思えます。枇杷坂も元来悪い人間ではないのですが、芸術性と、作品への愛情が行き過ぎてしまったのでしょう。そして、彼の場合、娘の植物状態と言う要因があり、ブレーキが効かなくなってしまったのでしょう。
脳と記憶
 今回の戯曲を完成させるために、いろいろ本を読みました。脳や記憶についてはもちろんですが、眼医学について、あるいは光や音の特性に付いて、また記憶や眠りを象徴するイメージや文学などです(おおむね理解していませんが・・・)。それにしても脳や記憶に関する参考文献は小説を書きはじめた当時にもちょっと読みましたが、脳科学などはとくに日進月歩なのだと痛感しました。今回、なるべく最新の知識をと、新しい年代の本を読みましたが、以前読んだ物と随分違う部分がありました。枇杷坂の研究を覆すような理論も出て来ました。まあ、もともと荒唐無稽な実験ですから覆されるも何もないのですが・・・。それでも脳内の記憶を読み取るタイプの嘘発見機の開発等、様々な分野で「記憶」の利用(記憶のインターフェース化?)が始まってもいるわけです。
 戯曲後半の一昭がある音によって動く事ができなくなるシークエンスは、動くと痛いという記憶を甦らせ、動きたくなくしてしまうメカニズムですが、これは、パブロフの犬の条件反射に似ています。ただ現在では、昔程インプットに対するアウトプット(刺激に対する反応)という現象だけで、生態が説明できる訳ではないというのが通説のようです。こういった形で、人間について、脳について、意識については、どんどんいろいろな事が解明されています。生体組織を使ったコンピューターは実用化段階ですし、ホーキングの言う脳とコンピューターを直結できる技術もそう遠い未来の事ではない気がします。
 やや自己弁護的な話になりましたが、実際、私たちを支えている物は、なんでしょう?私を私たらしめている根拠。あまり哲学的になってもいけないのですが、SPEAKER370の脚本を通しては、コメディやSFの形を借りながら、なんらかの問いかけを発し続けて来たと思います。今回は「記憶」とは何か?「記憶」はあなたを条件付けるか?私の「記憶」は私の物か?そういった「記憶」に関する普段感じるような、ちょっとした疑問がベースになっています。「記憶」については、未だに未解明の部分が多く「ニューロンの持続発火説」や「シナプス説」など諸説入り乱れているようです。例えば、戯曲中で、灯里が発表する理論がありますが、これは実は脳と記憶の研究の第一人者でノーベル賞受賞者の利根川進氏の理論で、脳のCA3野と呼ばれる部分が記憶の再生(recall)に重要な働きをしている可能性を検証したものです。
 さて、私のような無学者が脳の科学的側面を語る事は出来ませんので、自分のストーリーと結び付けて思う所を記しておきます。F.L.O.O.D.計画は偽の記憶を植え付ける実験ではありませんが、自分の記憶が不確かな時、何をもって自分を信じられるかと言われると、答えに窮してしまいます。そして、その拠り所であると思われている記憶は、それほど頼りにならない事が分かっています。記憶はすぐに改編され、偽りの記憶を信じ込むこともとても簡単なのです。近年指摘されている催眠術の危険性は、催眠術が忘れてしまったことを思い出させるのではなく、まったく存在しなかった事実を「思い出させてしまう」事にあります。それほど簡単なのです。ただ、今回は哲学的テーマよりも「記憶」や「脳」の不思議さをバックボーンにしています(その分、お話としては、ありそうもない荒唐無稽な実験を描いた、よくありがちなお話になっていますが・・・)。しかし「脳」の不思議は、ちょっとした読み物に触れるだけで体験できます。それは本当にありそうもない驚くべき症状や現象の宝庫なのです。
 トウ馬がかかっているナルコレプシーは実在する病気で、その入眠時幻覚は本当に現実と見紛うばかりのリアルさを持っているそうです。映画『マイ・プライベート・アイダホ』の主人公はナルコレプシーという設定だったと思います。またサヴァン症候群(サヴァンは学者という意味)も実在して、映画『レインマン』のダスティ・ホフマンの役づくりのモデルになったとされています。彼は物を数える能力が人並みはずれていました。他にもVTRで音楽的才能が優れている患者を見たことがあります。彼は一度弾いたり歌ってきかせれば、まったく同じように弾いたり歌ったりできる能力の持ち主です。また側頭葉の様々な部位に電気刺激を与えると、場所によって過去のいろいろな映像が甦る(驚くべきことに、音声つきの動画である)実験などなど。実際病気に苦しんでいる人もいらっしゃるので、不謹慎な事ですが、これらの症例は本当に興味深い物です。やはり「脳」の物語というのは、結局、自分が自分でなくなってしまったり、思いもかけぬ自己像が現れたり、自分を、自分以外の物がコントロールしているような、サスペンスにあるのだと思います。「記憶」を疑えば、「自分」や「現実」さえも、風前の灯で、どこまでが、信じられることだろうか?そうして、そう信じる自分の信じる能力がどこまで正しいのだろうか?思考は袋小路に突入し方向さえ見失ってしまいます。そこで、先人の知恵にならって、判断停止(エポケー)をして、あるがままの現象を受け入れると言うのが、我々の偽らざる生き方なのでしょうが・・・。時折、思考をスポイルせずに、ある事あらぬ事を、ごちゃごちゃと考えてみるのは結構楽しくスリリングな事です。そういう作品になれば良いのですが。
 科学は進み、世界は変化します。楽観的に観ても、悲観的に観ても、これは事実です。そして、この変化は何を隠そう、この「人間」という種族の「脳」が求めている環境なのです。私たちは、脳がひどく未熟な状態で生まれます。生後の環境によって脳を成長させる戦略だからです。こうして私たちは環境変化に適応できる種族となりました。そして、変化に適応しやすい脳を作ったのは良いのですが、今度はその脳が変化を求めて止まらなくなっているような気がするのです。そんな中で、できる事なら、私たちは、自然や世界の多様性、自分の記憶の不思議さといったセンス・オブ・ワンダーを最大限楽しみ、もちろん人間として生かされ、そして、人間性も失わない。そういう自分でいたいと思うわけです。
冷凍睡眠と未来
 さて、枇杷坂の野望も挫け、灯里とトウ馬は冷凍睡眠に入る訳です。これが2003年の出来事とされています。この冷凍睡眠技術については、戯曲ではほとんど触れていません。小説では次のように説明されています。
「2010年頃から活発となり、私企業のビジネスペースに乗る事で、多くの冬眠患者を生み出した。しかし、ある意味、人工冬眠は時流と背反した一一種の熱病的流行であった。人工冬眠の開発に成功した医療は、その段階ですでに多くの難病を克服できる潜在性を秘めていた。21世紀の前半には、医療のコペルクス的転換とも言うべき、革新的な二つのテクノロジ−すなわちバイテクとナノテクが、多くの病因を無力化していた。病気という言葉を生んだのが「医療」だとするならば、この「テクノロジー」は、病気そのものの資質を変異させてしまった。しかし、多くの難病が克服されたにも関わらず、人工冬眠業界は、勝ち気の市場開拓で一種のバブルを築いた。何故か?根治できない病は確かに存在した。そういった人々は、人工冬眠を選ばざるを得ない患者たちである。しかし、それ以上に人々を駆り立てたのは、人工冬眠そのものへの幻想的な憧憬だった。それは、科学万能の時代に訪れたロマン主義の奇態であり、人々はこの眠れる森にユートピアを幻視していた。そして究極のロマン主義が、不老不死であった。不老不死が実現する世界への人工冬眠は多くの政府によって禁止されていた(なぜなら、不老不死を実現した国において、将来、不老不死が認められるとは限らず、その場合、これらの冬眠者たちが起こされる保証はない。そして、起こされない睡眠者は死者であるかもしれないのだ。また、仮に起こされたとしても、彼等は、不老不死を得る事は出来ず、その場合、彼等の目を醒まさせる事はむしろ補償問題へ発展する)。しかし、非合法の冬眠者は後を立たなかった。やがて、法の網が厳しくなった事など、諸般の事由により、この熱疫と冬眠斡旋企業の高騰は、ほんの四半世紀で、内実のない泡沫と化した。生命倫理がどれほど叫ばれても、経営難の企業を再建する事はできない。多くの冬眠斡旋企業は、あいついで倒産し、覚醒医療の責任を放棄した。非合法の組織だけでなく、この分野で名を馳せた企業、例えば、国際的冬眠企業の先鞭役でもあったアメリカのTHORN社のようなカンパニーでさえ衰亡を遂げた。こうして、覚醒の義務を放棄された<眠れる難民(sleeping refugees)>は、21世紀後半の大きな社会問題となった。実際問題として、契約と保証の観点から言えば、今や、彼等を覚醒させる義務は誰にもない。もっと言えば、彼等の睡眠を存続させる義務すら、その所在を失ってしまったのだ。こうして、22世紀も近付いたある年、国立衛生局は、これらの人工冬眠者を救済すべく、国と50の医療関連企業の出資のもと、福島県浪江に広大なホスピタル・コンプレックス(医療等複合施設)、国立覚醒医療院を設立した。この人倫的措置により、時の政府の支持率は8%上昇したが、その時点で、人工冬眠の失敗やメンテナンスの不備等により、およそ30万人が文字どおり死の眠りについていた事があきらかになった」
 と、いったような歴史と事情があり、灯里とトウ馬はバラバラになってしまったわけです。睡眠時の契約が履行されなければ、いくら良心的な扱いを受けたとしても、眼病と脳疾患なので、二人が離ればなれになるのは仕方ない事で、さらにトウ馬の睡眠機は、一昭が生きているうちに、故障しトウ馬は先に覚醒してしまいます。もちろん、一昭とトウ馬は、灯里の所在を探したのでしょうが、国立覚醒医療院のアンノウン(無縁墓地と呼ばれる)クラスに収容された灯里を見つけだす事は出来なかったわけです。