『死刑台の上のイヴと電気箱の偶然の出会い』


脚本について
 今作は、2016年5月から9月にかけ執筆され、同年12月にNe'yankaにより初演。2016年4月に『黒い二、三十人の女』を再演したNe'yankaの主宰、両角葉からの委嘱で、執筆されました。
「イヴの入る箱」「電気を大切に」「蜘蛛女のミス殺人事件」この三つの短編が、女王にまつわるある「予言」に翻弄されながら偶然の出会いを果たします。それは奇跡の出会いなのか、それとも悪夢の出会いなのか。クリスマス・プレゼントのような小さな三つの箱が開く時、予言は成就するのか。
執筆過程
 今作は、オムニバスという体裁をとっており、「イヴの入る箱」「電気を大切に」「蜘蛛女のミス殺人事件」の独立した3作品と謳ってますが、最後の作品に前の2作品が割り込んでくる形で話が集約するので、実は1つの作品になります。(ただし「イヴの入る箱」に関しては、2005年に短編として上演したものを流用しています)

「蜘蛛女のミス殺人事件」
 まず「蜘蛛女のミス殺人事件」から書き始めました。全体の主要部分になります。
 元々、バルトークのオペラ『中国の不思議な役人』の「役人」という言葉(カフカ的でもある?)に面白さを感じ、<固有名のない全く同じ顔の3人の役人が死刑の方法を話し合うが、役人の提示する死刑方法は、次々妨害や邪魔をされ、死刑の方法がなくなっていく。そこをなんとかみんなで協力して乗り切り、無事死刑を成功させる>という設定を思いつきました。犯罪の有無や死刑の是非は全く無視して、一同が死刑というゴールに突き進んでいくというようなブラック・コメディです。これはアメリカの大手製薬会社のファイザーが「死刑執行に用いる薬物は販売しない」と発表した記事(http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/05/post-5110.php)から着想を得ました。
 また、一つ前の上演作『黒い二、三十人の女』の最終場が「死刑台への行進曲」(エクトル・ベルリオーズの《幻想交響曲》の第4楽章のタイトルに由来)という名前だったため物語を死刑台から始めたいという思いもありました。そして、作者の場合、タイトルが作品の内容に大きな影響を及ぼすのですが、

◆2002年上演のspeaker370による『黒い二、三十人の女』の当日パンフレットに次回予告として『蜘蛛女のミス』と冗談で載せて(マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』のもじり)結局書かなかった。

◆2016年上演のNe'yankaによる『黒い二、三十人の女』の当日パンフレットに次回予告として、前回の冗談を踏襲し『蜘蛛女とジャズ』と掲載(「ジャズ」はNe'yanka主宰の要望)

 ということで、当初のタイトルは『蜘蛛女とジャズ』でした。蜘蛛女はギリシア神話のアラクネ(ギリシア神話に登場する機織りの名人。女神アテネより自分が勝ると豪語しアテネとの機織り対決の後、アテネによって蜘蛛の姿に変えられた)をイメージし、オウィディウスの『変身物語』や志賀直哉の『荒絹』などを読んでみました。そして、<宮廷演奏家の女性が女王の前で不敬な演奏をし、死刑を宣告される。その死刑方法を議論する3人の大臣、そして、訳あって演奏家を守ろうと変装し暗躍する王子>を描いた話となりました。演奏家は独房でずっと編み物をしている所からアラクネ=蜘蛛女。そして、ある一連の音符の並びを彼女が一音変えて演奏したことが、国にとって重大な秘密になっていて、その音符の並びこそがジャズでいうブルーノートだった、というような感じで無理やり「ジャズ」を組み込みました。

 ここで物語の底部を補強するため「予言」と予言に怯える女王という設定を思いつきました。これは、ギリシア神話のペルセウスにまつわる予言を連想させます。これで予言通りペルセウスが帰還し王が死ぬという流れで、物語がみるみる動き始めました。ただ「ジャズ」の部分がやや無理矢理に思え、思い切って「ジャズ」の要素を除き、女をデザイナー(機織師)に変え「蜘蛛女」のイメージを単純化し、エウリピデスの『メディア』に着想を得た女王暗殺事件を推理物のように扱う話しに変えました。この辺りでタイトルが「死刑台の上の蜘蛛女と電気箱の偶然の出会い・・・でさえも」(ロートレアモンの「解剖台の上のミシンと洋傘の偶然の出合い」という言葉のもじりに、マルセル・デュシャンの作品「大ガラス」の副題「彼女の独身者達によって裸にされた花嫁・・・でさえも」の「・・・でさえも」を付けたタイトル)など二転三転し、最終的にアラクネも王子も消え去り、タイトルも「蜘蛛女のミス」に帰還しました。なお「殺人事件」と付けたのは、お客様を推理物だとミスリードするためです。

「イヴの入る箱」
「イヴの入る箱」は、2005年に友人の女優の誕生日パーティーの席で小さなお芝居をやりたいという事で頼まれて書いた「誕生」をテーマにした3人芝居です。上記のアラクネに大きくかかわる形でこの「イヴの入る箱」を取り上げようということはかなり早い段階で決めました。
 当時カフェでの上演だったため限られたお客様にしか見ていただけず、いつか再演したいと思ってましたし、そして、今回はクリスマス公演ということで、クリスマスにも相応しいこの作品を取り上げるには絶好のタイミングでした。
 なお、その友人の女優がまさにNe'yankaの主宰なので、いずれも彼女に委嘱された作品という事で、こちらも見事に帰還したことになります。ほぼ初演時のままですが、台詞中の「豚」が今回は「蜘蛛」になっています。また箱のイメージが上記のペルセウスの予言にもつながっていきます。

「電気を大切に」
 構成上もう1シーン欲しいなと思い書いたのがこの作品です。今回死刑について勉強をしている過程で『処刑電流』という本を読み執筆しました。「死刑」というと全体に暗いトーンになりそうですが、この話は非常にコミカルです。有名な発明家エジソンにまつわるある程度実話を基にした話になり、これも上記の死刑、そして予言に絡んできます。ある有名な椅子を箱に変えることで、イメージが循環しています。

全体の構成
 続いて全体の構成についてですが、元々、作者の中にはオムニバス(もどき)の構想はありましたが、当初は上記の3作をA−B−A−C−A−B−Aという音楽用語で言うところの大ロンド形式に則って並べ、ストーリーを描出していました。これは、箱の中の箱、入れ子構造的なイメージです。が、やはり思い通りに行かず、最終的に主宰からもオムニバス(もどき)に出来ないかと打診があり、3作品に分けました。全体がつながっていく部分は「長いエピローグ」となります。結局、4楽章の交響曲のような形式になりました(それもいわゆる循環形式)。
 そしてオムニバスという事で、全体を俯瞰するタイトルを付けようとなった時、「蜘蛛女のミス殺人事件」の執筆過程で考えていた「死刑台の上の○○と○○の偶然の出会い」という全てを集約できるようなタイトルが見事に当てはまって、結果『死刑台の上のイヴと電気箱の偶然の出会い』となりました。 長いので公式略称は「イヴ電」です。

第一楽章:「イヴの入る箱」=「イヴ」
第二楽章:「電気を大切に」=「電気箱」
第三楽章:「蜘蛛女のミス殺人事件」=「死刑台」
第四楽章:「偶然の出会い」

 ということになります。
「偶然の出会い」ではありますが、女王が国から追放した「箱」が、結局女王自身によって国に戻ってきて、女王を滅ぼすという、ペルセウスの予言のような帰還の物語に決着しています。

引用や脚注について
 毎回の事ですがこの作品にも引用や裏設定などがいろいろ登場します。衒学的な事が好きという人や隠された物が好きな人はご一読の上、作品解釈の一助にしてください。勿論、上演時に脚註は読まれませんので知らなくても鑑賞に差し支えはありません。
死刑台の上のイヴと電気箱の偶然の出会い
 シュールレアリスムの先駆的詩人ロートレアモン(1846-1870)の「解剖台の上のミシンと洋傘の偶然の出合い」という言葉の引用。さらに、当初は、文末に「・・・でさえも」を付け、マルセル・デュシャン(1887- 1968)の作品「大ガラス」の副題「彼女の独身者達によって裸にされた花嫁・・・でさえも」も入っていた。

女王への予言
「王子の子供が天使に祝福される時、女王はパンドラの箱によって解き放たれたドラゴンに噛まれ命を落とすだろう。」この予言は、ペルセウスの神話を想起させる。アクリシオス王には娘ダナエーがいたが男の子がいなかった。王に「息子は生まれず、王は彼の孫によって殺される」という神託が降りたため娘を幽閉するがゼウスが黄金の雨に身を変えて忍び込みペルセウスが産まれた。これを知った王は、娘とその子を手にかけることができず、二人を箱に閉じこめて川に流した。数十年後、ペルセウスは帰国したが、このことを伝え聞いた王はペルセウスを恐れて逃亡し、ペルセウスが王となった。あるとき、ペルセウスはラーリッサの街で競技会に出場した。ペルセウスが円盤を投げたところ、円盤が老人に当たってその老人は死んだ。その老人こそアクリシオスで、こうして神託は実現した。

グロリア
 天使の挨拶のように使われている。「グロリア」はキリスト教のミサの通常文の「栄光の賛歌」で「Gloria in excelsis Deo.Et in terra pax hominibus bonae voluntatis.」(いと高き所に神の栄光あれ!地上では善意のある人々に平和あれ!)と唱和する。これは、キリストの降誕に際して天使たちが歌った感謝の聖歌に起原を持つ。「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」(『聖ルカ福音書』第2章)つまり「誕生」に際して「天使」が歌った歌が「グロリア」。
 トニー・クシュナーの戯曲『エンジェルス・イン・アメリカ』には、題名の通り天使が登場するが、この時も「グロリア」が唱えられている。またクリスマス・ソングで有名な「荒野の果てに」でも「Gloria in excelsis Deo」が印象的に歌われている。

箱のパラドックス
 集合論のパラドックスで、「全ての箱が入る箱」が存在するかどうかを問う。答えは存在しない。全ての箱をある一つの巨大な箱に入れたとしても、その箱自体が入っていないので「全ての箱が入る」とは言えないというパラドックス。
 今回は、この箱を「母胎」というイメージに転換し、「全ての箱が入る箱」とは、子供がかつて入っていた「母」であり、その「母」も、その前の「母」に入っていたと言うような理屈で、最終的に「イヴの入る箱」へとつながる連綿と続く箱=「誕生」の連鎖というイメージにした。
*いろいろなパラドックスを紹介した『パラドックス!』という本(林晋・編著、日本評論社、2000)の中で、集合論のパラドックスを紹介するのに、天使が作る究極の箱という設定を使っており、天使と箱のパラドックスの設定はここから影響を受けている。

コモドオオトカゲ
 本作ではドラゴンの役割を果たしている。ただ、作中で語られる唾液中のバクテリアにより敵を感染死に追いやる生態には否定的な見解もある、との事。

発明家
 トーマス・アルヴァ・エジソン(1847-1931)をイメージ、アメリカ合衆国の発明家、起業家。交流を推進するウェスティングハウス・エレクトリック社との対立から、交流電流を危険な殺人の道具と印象付けるために助手を雇い電気椅子を開発した。動物への感電実験の見世物化も事実。象については、1903年、ニューヨークのコニーアイランド遊園地の象のトプシーが電気処刑されている。この様子は映像としても残っている。
 また、エジソンとの特許争いで、ユダヤ資本の映画会社が新天地として開発したのがハリウッドとなる。
「グラハム相手はリスクがでかいな。ありゃ、顔が広い。」「私が微積分を理解できていないからだとぬかしおった。」「私は数学者を雇える。いくらでも。では、数学者は私を雇えるか??」辺りの台詞は、文献に出てくる。「私の発明は、すべての人にとって役に立つ物でありたい。そして、世界の平和に貢献するような物でありたい。もし私の発明で一人でも人が死んだとしたら、私には人生を生きる意味も資格もない。」という名言も伝わっている。
 なお、グラハムは、アレクサンダー・グラハム・ベル(1847-1922)、ウェスティングハウスはジョージ・ウェスティングハウス・ジュニア(1846-1914)のこと。

助手
 ハロルド・P・ブラウン(1869-1932)をイメージ。電気椅子を発明したアメリカ合衆国の発明家。彼の交流電流での感電死の記事がエジソンの目に留まり、電気椅子開発の為に雇われた、とされる。

機織師のアラクネ
 ギリシア神話に登場する機織りの名人。アラクネーとも。女神アテネより自分が勝ると豪語しアテネとの機織り対決の後、アテネによって蜘蛛の姿に変えられた。「と、たちまちに、不吉な毒薬に触れた髪の毛が、脱け落ちた。それとともに、鼻も、両耳も落ちる。そして、頭がたいそう小さくなる。からだ全体も、ちっぽけなものとなった。脇腹に、やせこけた指がついていて、脚の代わりをする。あとは、腹ばかりだが、今もその腹から糸を吐いて、むかしどおり機織りに励んでいる。彼女は蜘蛛になったのだ。」オウィディウス『変身物語』巻六「アラクネ」
 蜘蛛恐怖症を表す「アラクノフォビア」という言葉などの語源になっている。志賀直哉はアラクネから発想を得て『荒絹』を著した。

ショールに仕込まれた針
 ギリシア悲劇の代表作『メディア』で主人公メディアは、夫を奪った姫に毒を仕込んだうちかけと冠を贈り、惨殺している。「うすぎぬのうちかけと黄金細工の冠を持たせて、追放を免れられるよう、花嫁御のもとへ遣わしてやろうというのです。その品を受け取って、身につけようものなら、姫の身に触れた人もともども、無慙に命を落すは必定。そのような毒薬を、贈物には塗っておくのです。」エウリピデス『メディア』
 この部分の次女の死に方の描写も『メディア』の表現に則っている。

祝典での死刑
 今作品のエピグラフ、ジェレミー・ベンサム『刑罰論』の「刑罰を見せしめとし、その儀式に陰鬱な荘厳さを与えよ。すべての模倣芸術を助けとせよ。(中略)この恐ろしい戯曲のすべての登場人物は荘厳な列の中で動き、重々しい宗教的音楽が心構えをさせる。」に喚起されたイメージ。

製薬会社からの薬物提供拒否
 アメリカの大手製薬会社のファイザーが「死刑執行に用いる薬物は販売しない」と発表した2016年5月17日の記事(http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/05/post-5110.php)から着想。一部転載すると「米製薬大手のファイザーは先週末、「死刑執行に用いる薬物は販売しない」と発表した。直ちに影響を受けるのは、死刑を維持しているアメリカの32州。薬物注射による死刑執行に必要な薬物の調達が難しくなる。同社は声明で「ファイザーは患者の命と健康のために製品を作っており、それが死刑の執行に使用されることに強く抗議する」と言う。今後ファイザーは死刑執行に用いられてきた薬物の流通を規制する。対象となるのは臭化パンクロニウム、塩化カリウム、プロポフォール、ミダゾラム、ヒドロモルフォン、臭化ロクロニウム、臭化べクロニウムの7製品。死刑の執行に使用する目的で転売しないことを条件に、限られた業者にだけ販売する。ファイザーや他の製薬会社による規制によって薬物の入手が難しくなれば、電気椅子やガス室といった、薬物注射以外の執行方法を検討する州が出てくる可能性もある。だがそうした方法は薬物注射よりも非人道的だという見方が強いため、結果として人々は死刑制度そのものに疑問を持ち始めるのではないか、と期待する声もある。」

母体へのしがみ付きと流産
 今回流産のエピソードを取り入れるかは、軽々しく扱える題材ではないため、ずいぶん迷った。刑罰に関するよく知られた言葉「もし人が互に争って、身ごもった女を撃ち、これに流産させるならば、ほかの害がなくとも、彼は必ずその女の夫の求める罰金を課せられ、裁判人の定めるとおりに支払わなければならない。しかし、ほかの害がある時は、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。」という『出エジプト記』21章に流産の記述があり、最終章のエピグラフに「たとい人は百人の子をもうけ、また命長く、そのよわいの日が多くても、その心が幸福に満足せず、また葬られることがなければ、わたしは言う、流産の子はその人にまさると。」『コヘレトの言葉』第6章3、を選んだこともあって、天使の祝福とあわせ取り入れた。

電気箱
 助手が「あ、箱の中に電気が流れてお肉が焼けたらいいなぁ。」と言っている電子レンジは、パーシー・スペンサーにより1947年に製品化された。エジソンやブラウンとは関係ない。

参考文献
■「イヴの入る箱」
 林晋/編著『パラドックス!』 日本評論社 2007年
■「電気を大切に」
 リチャード・モラン『処刑電流』岩舘葉子/訳 みすず書房 2004年
 クリストファー・ローレンス『エジソンに消された男 映画発明史の謎を追って』鈴木圭介/訳 筑摩書房 1992年
■「蜘蛛女のミス殺人事件」
 オウィディウス『変身物語〈上〉』中村善也/訳 岩波文庫 1981年
 エウリピデス『メディア』(『ギリシア悲劇 III』収) 中村善也/訳  ちくま文庫 1986年
 マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』野谷文昭/訳 劇書房 1994年
 志賀直哉「荒絹」(『ちくま日本文学 志賀直哉』収)筑摩書房 1992年
 マルタン・モネスティエ『図説 死刑全書』吉田春美・大塚宏子/訳 原書房 1996年
 ジャン・アンベール『死刑制度の歴史』吉原達也・波多野敏/訳 白水社 1997年
 ジャン=マリ・カルバス『死刑制度の歴史』吉原達也・波多野敏/訳 白水社 2006年