『イヴの入る箱』


脚本について
 今回の脚本は、今までに書いた舞台上演用の脚本と違い、「カフェ」での上演を前提としたものです。役者は少なく、かつ誕生日の主役である女優を引き立てる15分程度の短編です。勿論、誕生日に相応しい内容を意識しました。
「全ての箱のパラドックス」
 あいかわらずパラドックス好きの僕ですが、今回は有名な「全ての箱のパラドックス」です。これは、「全ての箱が入る箱」が存在するかどうかのパラドックスで、答えから言うと存在しないと言う事になります(本当はパラドックスなので答えは出ないというのが、正しい答えですが)。なぜかと言うと、全ての箱をある一つの巨大な箱に入れたとしても、その箱自体が入っていないので「全ての箱が入る」とは言えないからです。勿論、その箱よりひとまわり大きな箱を用意しても同じ事です。
 今回は、「誕生日」ということで、この箱を「母胎」というイメージに転換しました。「全ての箱が入る箱」とは、子供がかつて入っていた「母」であり、その「母」も、その前の「母」に入っていたと言うような理屈で、最終的に「イヴの入る箱」へとつながって行く、連綿と続く箱=「誕生」の連鎖というわけです。
*いろいろなパラドックスを紹介した『パラドックス!』という本(林晋・編著、日本評論社、2000)の中で、著者が、集合論のパラドックスを紹介するのに、天使が作る究極の箱という設定を使っています。天使と箱のパラドックスの設定はここから影響を受けています。

グロリアと天使
「グロリア」は「栄光」という意味のラテン語です。今回、最初に登場する二人の職員(?)の挨拶の言葉として採用しました。英語の「glory」と同じで、栄光、名誉、光輝、繁栄というイメージですが、感謝の気持ちも裏にはあります。
「グロリア」を採用したわけは、「グロリア」がキリスト教のミサの通常文の「栄光の賛歌」の事だからです。「Gloria in excelsis Deo.Et in terra pax hominibus bonae voluntatis.」(いと高き所に神の栄光あれ!地上では善意のある人々に平和あれ!)と唱和しますが、これは、聖ルカ福音書が元になっており、キリストの降誕に際して天使たちが歌った感謝の聖歌に起原を持ちます。「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」(『聖ルカ福音書』第2章)つまり、「誕生」に際して「天使」が歌った歌が「グロリア」なのです。「誕生」と「平和」と「感謝」の賛歌と言えます。
*トニー・クシュナーの戯曲『エンジェルス・イン・アメリカ』には、題名の通り天使が登場しますが、この時も「グロリア」が唱えられています。また、音楽様式の一つミサ曲にも、〈グロリア〉は入りますので、様々な作曲家により〈グロリア〉が作曲されています。初演時にも4つの〈グロリア〉が流されました。

コモドオオトカゲと豚と人間
 3人芝居の短編とはいっても、いつものように衒学的な部分があるのが、僕らしい脚本になっています。コモドオオトカゲの驚くべき攻撃能力についてや、豚が野生種の猪から人間が作った生き物だという事などコモドオオトカゲや豚についての説明がなされ、ひるがえって、人間と言うおかしな動物の奇妙な(矛盾した)生態が語られます。しかし、これは人間批判ではなく、あくまでも、コモドオオトカゲと豚と人間の比較です。今さら、という気のする批判ですが、暗いニュースにばかり触れていると改めてという気がします。しかし、恥ずかしながら言ってしまうと、珍しくこの部分は人間賛歌になっていると自分では思っています。
 また、今回の設定は、この世に生まれる魂を、天使が分業制で、様々な「種」に割り振って行くわけですが、ここに登場する二人が任されている「種」はコモドオオトカゲと豚と人間なわけです。天上の大いなる「手」の前には、人間なんて、コモドオオトカゲと豚と同時に振り分けられる存在(酪農家が牛の乳からミルクとチーズとヨーグルトを作るような程度で)等しく扱われている存在なのかもしれません。あんまり驕ってはいけませんね。

蔑む、奪う、盗む、偽る、妬む、壊す、殺す
 今回は題名からいっても、聖書色が強いのですが、これらの言葉もそうで、モーゼの「十戒」の中のいくつかの戒めの反対の事を言っています。こういった事を延々繰り広げているのが人間ですが、前にも述べたように、やはりこの作品は人間賛歌であり、ひいては芸術賛歌なのです。そう受け取ってもらえたら嬉しい限りです。せっかく人間に生まれたのですから人間にできる事を享楽したい物です。それは僕にとっては、文化芸術であり、それは堅苦しい物ではなく、友人の誕生日に台本を書くというような、そういうささいな事なのですが。

カインとアベル
 この話はとても有名なので、今さら説明するのもなんですが。カインはアダムとイヴの第一子です。アベルはその弟です。ある日、二人は、それぞれの収穫物を神に捧げましたが、神はアベルのそれは受け取って、カインのそれは受け取りませんでした。カインは怒ってアベルを殺してしまうのです。これが、創世記の第4章で語られている人類最初の殺人、兄による弟殺しの物語です。
 最近、というか昔から、殺人のニュースを耳にする度に、殺された方にも、殺した方にも母親(というか家族)がいて、 それぞれ別種の悲しみに暮れる事になるんだなぁと思う事があります。イヴは、その両方で(他人を殺したと言うわけではないので、あくまでも単純に考えればという程度の話ですが)加害者の母であると同時に、被害者の母という事になります。ちなみにカインは神の怒りをかい、放浪者として追放されるので、イヴは息子を二人同時に失う事になります。ミルトンの『失楽園』では、楽園を追放されたアダムとイヴを天使ミカエルが励ますわけですが、この結末には天使も胸を痛めた事でしょう。