『F.L.O.O.D.』〜フラッド〜

ACT 6

時間は、体験された感情についての記憶の、すばらしい濾過器、偉大な浄化装置である。
のみならず、それは、素晴らしい芸術家である。
時間は単に記憶を浄化するばかりでなく、詩化することもできるのだ。
----------スタニスラフスキー『俳優の自分に対する仕事』

SCENE 20

 

  一昭と灯里がいる。場所はどこでも良い。
灯里(声)結末は悲劇だった。私も一昭も言葉が出なかった。トウ馬の心は、度重なる視覚刺激でほとんど崩壊していた 。このままだと一生を精神病院で過ごす事になり、しかも長生きはできないだろう。私の太陽による涙の症状もいままで通り、昼間の世界では生きて行けそうにない。ある日、一昭がトウ馬に人工冬眠医療を受ける事を勧めてくれた。そして、君も行けと、一昭は言った。
一昭君も行け。
灯里私も?
一昭そう。残るなんて言うなよ。命令できる立場じゃないけど・・・
灯里一昭。でも、わたし一昭と。
一昭君には、明るい太陽の下で生きていて欲しい。枇杷坂が言っただろ。僕らの記憶は作り物だと。そうやっていろいろ考えると、僕らが付き合っていたあの日々は、全て、作られた記憶なのかも知れない。研究室で、疑似恋愛の体験か、フィルムでも見させられたんだろう。
灯里でも・・・
一昭そう、でも、僕らは、その記憶が、にせ物であっても共有はしていた。多少のチグハグは、どんな人間でもある事だ。その記憶があるからこそ、僕は君を追いかけた。だから・・・僕は、その記憶を大切にしたいと思ってる。君と僕は付き合っていた。それは、確かだ。世界中の全員が否定しても、僕は、それを信じる。君が否定しない限り。
灯里(笑いながら)否定する。
一昭それでも、信じる。それじゃ、明日。
  歩き去ろうとする一昭。そこに、振動数10キロヘルツ の音波が鳴る。一昭動けなくなる。灯里の手に例の機械がある。
一昭おい。
  灯里、音を止めて、機械を一昭に渡す。
灯里否定しない。ありがとう。一昭。
  一昭、歩き去る。

SCENE 21

国立覚醒医療院

  灯里、小野里、元永、彦坂がいる。一同、感慨深そうにしている。彦坂は泣いている。
灯里これが、私の覚えている事全てです。
小野里なるほど。(彦坂に気付き)どうした?
彦坂ええ。ちょっと。
元永2人で未来に希望を繋いで人工冬眠を選んだ。だけど、2020年代の人工冬眠の混乱のせいで、二人はバラバラになってしまった。
小野里しかし、そんな実験が、存在したなんて・・・。
灯里枇杷坂は、観察だと、言っていました。
  一同、静まり返る。
彦坂そ、そうだ。それで、結局、こうして、話を聞かせてもらって、灯里ちゃんの、目の病気は、治せるんですか?
小野里俺は、治せると思う。元永はどう思う?
元永カウンセラーとしての所見だけど、良いかしら?
小野里いや、むしろ、その方が良い。
元永灯里さんの、涙の原因は、記憶、つまり脳にある。
彦坂記憶・・・。
元永光の刺激、情報を取り入れ、再生する訓練を受けていた灯里さんのニューロンは、光刺激に特別な感受性をもっている。特に、情報の刷り込みと再生は、光刺激のとほとんど同じ回路で処理されているんじゃないかしら。
彦坂そ、それで?だから?
元永彼女が、幼い頃、なんらかの理由で、弟さんと別れる事になった。弟さんが、特別な実験場所に連れていかれたんだと思うけど。
彦坂連れていかないで、か。
元永その時、おそらくよ、眩しい太陽の光が灯里さんの目に入った。光に敏感になっている灯里さんのニューロンは、弟が連れていかれてしまう悲しい記憶を、太陽の光と共に、彼女の意識下に刷り込んだのよ。そして・・・。
彦坂そして、涙を流すという反応だけが、残った。
元永そんな所ね。どう?
小野里同感だ。だとすれば、現在の医学で、治すことができるが、どうする?
灯里治すってどうやって?
小野里太陽の光とその記憶とを結び付けているニューロンのネットワークを断絶する。つまり、太陽を見ても、君の潜在意識は、あの記憶を思い出さなくなると言うこと。
灯里思い出さなくなる・・・。先生・・・だから言ったんです。治療は必要ないって。
元永(わざと)確か、一昭君も君が太陽の下で生きられるよう願っていたはずだけど。
灯里わたし・・・一度、自分が信じられなくなりました。この手も足も、記憶もみんな私に嘘をつく。知らずに命令されてる。同じ道を何度も通ってる・・・。でも、この瞳は、私がトウ馬と引き離された日の強烈な太陽の光をやきつけていた。太陽の光は、無意識にではあってもちゃんと、その時の私の悲しみの記憶を引き出す。必要もないいろいろな事を無理矢理記憶させられた、でも、一番重要な、そして私自身が忘れてしまった事をこの涙は、覚えていてくれた。だから、この涙を、その証として、とっておきたいの。この涙は宝箱の鍵なんです、きっと。
小野里(言葉を失って)・・・では、やはりこれを。(薬を渡す)
灯里これは?
小野里涙の抑制剤さ。コンタクトタイプの点眼薬になっている。眼球に必要以上の涙を出さなくするが、効力も効果時間もいろいろ選べる。次善の策と用意したが、これが、最良の治療のようだ。必要な時は飲んで、泣きたい時は泣けば良い。
灯里・・・。
小野里一昭君の夢と、そして、君の存在の証だ。
灯里・・・医学って随分、進んだんですね。枇杷坂の情熱も最初はきっと・・・。
元永(軽く笑って)そういうふうに、無理して許容してはだめよ。
灯里そうですね。
彦坂ところで、じゃ、どうして、いや・・・例のサングラスの太陽では、涙が出なかったんですかね。やっぱり、映像からは出てなくて、太陽から出ている赤外線やガンマ線が記憶に作用・・・
元永そうね。確かにそれは、不思議だわ。どうなの?
小野里それは、目医者の領域だな。錯覚なんだよ。君たちは、テレビを映像だと思っているが、あれは、静止画の連続に過ぎない。1秒間にせいぜい コマ。動いているように見えるとは言っても、実際の、太陽の輝きとはまるで違う。灯里ちゃんが、そこまで認識できる事を、枇杷坂は知っていたのだと思うよ。
元永なるほどね。錯覚。なんて多いのかしら、この世には、錯覚が・・・。
灯里錯覚が・・・。
元永さ、灯里さん。退院して、そして、探さなきゃね。
灯里ええ。探すつもりです。

   

SCENE 22

ある施設の庭

  国立覚醒医療院でのその後の会話と、灯里がトウ馬を発見するまでの、独白が重なる。
小野里・・・。弟さん。随分、前に覚醒していたそうだな。
元永ええ。そうね。でも、彼女、別に悲しんでないわ。
灯里トウ馬はそこにいた。
小野里強い子だ。
元永そうね。
小野里それにひきかえ・・・知らずに命令され、同じ道を何度も通ってる。・・・(急に慟哭して)どうして!どうして、もっと早く彼女を起こしてあげられなかったんだ!!どうして!私は、私は、医者なのに、たった一人の患者と向き合う勇気がなかった。私には、勇気がなかった。
灯里静かな湖のほとりの、小さな覚醒者用の施設。
元永(慈悲深く)あなたのせいじゃない。あなたにも、それは分かっているはず。ただ、あなたは、回り道をするタイプなのよ。その回り道をした自分が許せなくて、自分を叱責する理由が欲しいだけ。
灯里私たちの入眠から28年後に、睡眠ポッドの故障で彼は、先に覚醒していた。
小野里前に、そうだ、彦坂に医者が牧師を兼ねていても良いと言われて、言い合いになった事がある。俺は牧師を兼ねることが恐かったんだ。
元永そう思うように自分を騙していただけよ。あなたは、いつだって、医者よ。今回もちゃんと患者さんの心を診察して、最適な治療をしたわ。立派なお医者さんだった。
小野里心の診察か。人の慰め方を心得ているな。
元永そうよ。カウンセラーは天使を兼ねているのよ。
灯里ありがたい事に、その時点で、彼の病気を治す治療法は確立されていた。
小野里どうりで。
元永なによ、どうりでって?(軽く)なんなら、カウンセラーが、妻を兼ねても良いんだけど?
灯里そして、彼は、そこにいた。
  SCENE 1と同じ庭。まるで、幻影のような夏の光景。一面の緑。灯里、車椅子に乗った老人に歩み寄り。
灯里久しぶりね・・・。
  若い女性が現れる。どうやら老人の介添をしているらしい。
介添人何にも分かりませんよ。おじいちゃん。
灯里治らなかったんですか?
介添人え?ああ、冬眠した病気ですか?それは、すっかり治りましたけど、もう、お年だから・・・いわゆるアルツハイマー病 ってやつですね。おじいちゃん。お客さんよ。・・・もう、この頃は、言葉もでないみたい。
灯里そうですか。自然に、忘れていくんですね。人間って。いろんな事を。
介添人ご家族の方ですか?本人の文書か、近親者の同意があれば、記憶の再生をすることができますよ?
灯里え?あ、ごめんなさい。私、長い間、眠っていたものだから。
介添人え?ああ、そう、脳の再生医療です。β-アミロイド をね。
灯里あ、ああ。ちぇっとね。
介添人医療も随分進歩しました。記憶のメカニズムも解明されましたしね。
灯里そうですか・・・彼は、何か文書を残してますか?
介添人いえ、特に。
灯里じゃあ、そっとしておいてあげてください。無理に思い出させないで・・・。
介添人今どき、珍しいですね。そういう考え方。でも、私のお爺ちゃん、あ、この施設を作った人なんですけど、もそんな事を言ってました。年を取るんですもの。その分、幸せになれるように忘れていくんだって。
灯里へえ。素敵な言葉。
介添人そうそう、この人、第1号の患者さんなのよ。というより、私のお爺ちゃんが、この人の世話をするために作ったような施設なんです。ここ。
  ピーという音が出る。老人が何かを持っていてそれが音を立てているようだ。
介添人どうしたの?
灯里それ・・・。
介添人お爺ちゃんの遺品なの。嫌な音でしょ?(老人に)何?どうしたの?(老人の口元に耳をあてて)・・・ありがとうって言ってます。この話をすると必ず、こう言うんです。ありがとう。一昭さん、ありがとうって。
灯里一昭・・・(言葉を詰まらせる)
介添人ああ、私のお爺ちゃんの名前。お友達だったらしいの、大事な人の大事な人だから、もっと大事な人だったんだとか、そんなような・・・。ちっちゃい頃聞いた話だから、良く覚えてないけど・・・あれ、どうしたんですか?
灯里(涙を隠して)いえ。別に・・・。また、来てもいいかしら?
介添人もちろん。お爺ちゃんも大喜びよ。
  去っていく灯里。彼女の背後で、トウ馬がゆっくりと立ち上がり、何か昔大事にしていた物をつかみ取ろうとでもするように、灯里の方に手を伸ばす。それを介添人が驚いて見つめる。